父性の物語としての「舞いあがれ!」

 朝のNHK連続テレビ小説「舞いあがれ!」。かつてEテレで四年間にわたり「クッキングアイドル アイ!マイ!まいん!」にて主演を務めた福原遥が主人公の梅津舞(旧姓 岩倉)を演じ、主に東大阪の町工場と長崎の五島列島を舞台とした作品である。
 Twitterで見る感想にはその繊細で情緒的な物語への共感が多くみられる。毎日の放送後にはトレンドにしばしば「#舞いあがれ」ほか、その日の物語のキーとなった言葉が上っている。最終回も近い現在(2023年3月第二週)、舞ちゃんは第一子を出産。どのようにして物語が締めくくられるのか、視聴者たちは静かに見守っている。
 なぜそこまで魅せられるのか。筆者は物語の根底に横たわる「父性」にその理由があるのではないかと考えている。拙いながらも舞、貴司、久留美の三人の父親について整理しながらまとめてみたので、お付き合い頂ければ幸いである


【前提】


 筆者がここで考えたい「父性」「母性」とは、字義的な「父親らしさ」「母親らしさ」から少し立ち入ったものであることを前もって述べておきたい。ここでの父性/母性については、河合隼雄「母性原理社会日本の病理」の一章を引いて以下のように整理しておく。


「母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。」
「父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。」

 河合は同書で日本は「場の平等」を重視する母性原理が支配する社会であることを指摘している。それが理由だと断定まではできないが、慈しみ深い母親像は長く大衆から尊ばれてきたのではなかろうか。
朝の連続テレビ小説は女性が主人公となりその生涯を描くことが多く、少女時代から成長し母となったヒロインも多数いる。ほやほやの新生児を抱き慈しみ深い目で見つめるヒロインはまさに母性を象徴していると言えよう。
 「舞いあがれ!」も物語は病弱な舞の五島での転地療養から始まり、母・めぐみが舞を置いて五島から東大阪へ帰る週は心に残った視聴者も多かったのではなかろうか。出発前夜、布団に入って別れを思い眠れない母娘のシーンは涙が止まらなかった。いかにも美しい母娘の愛情を描いたシーンであるが、筆者はここに萌すめぐみの「父性」こそ、本作を名作たらしめる所以であると考えている。河合の言葉を引きながら、その理由を以下に詳述していく。

1.岩倉浩太 背中を見せる父


 主人公・舞ちゃんの父であり、岩倉螺子製作所(のちの株式会社IWAKURA)の二代目社長である。若い頃は重工メーカーで飛行機を作るという夢を追いかけていたが、急逝した父に代わり工場を継ぐためにその夢を道半ばで諦めることとなる。
 舞の空へのあこがれと飛行機への夢は、父である浩太から受け継がれたものである。主人公の人生を貫くテーマを与えた存在であり、理想的な父性を体現した人物とも言える。
父の背を通して空に惹かれ、父の工場を通してものづくりの世界を知る。舞にとって父は社会へとつながる窓であり、また大きな成長の場となった五島へと送り出してくれた存在でもあった。子らを慰撫する母の膝から切断し、子を社会へ送り出すのが父性であるとするならば、まさしくその役割を担ったのが浩太であると言えよう。惜しむらくは早逝したことであるが、浩太の死なくして舞の飛翔はなかった。憧れの父として完成するためには物語の上で必然の死であったともいえる。
更に、『舞いあがれ!』の物語に奥行きを出しているのが、舞にとっては“理想の父”であった浩太の存在が兄・悠人にとってはそうならなかった点ではなかろうか。
仮に舞が男の子であれば。父の想いを継ぐ息子というやや陳腐な美談にもなりそうなところを、長男である悠人はそれに真っ向から反抗する。堅実にものづくりで会社を大きくしていこうという浩太の価値観を悠人は否定し、喧嘩別れに終わったまま死別することとなってしまう。浩太には浩太の、悠人には悠人の頑なさゆえのすれ違いがもたらす悲劇である。見方によれば悠人への理解を欠いた父であり、岩倉家に共通する「頑固さ」の源泉のようなものを感じる。
 最終回、自らもまた父となった悠人が「親父、夢叶ったな」と小さく微笑みながら空へ飛び立つ舞を見守る姿にもまた、受け継がれた父性に感動させられた。

2.梅津勝 見守る父


 浩太の幼馴染であり、後に舞の夫となる貴司の父である。岩倉家の隣で物語に寄り添う「お好み焼きうめづ」の店主でもあり、妻の雪乃との軽妙なアドリブでもくすりと笑わせてくれる存在として愛されている。
 勝の「父性」は、「切断し分別する」という強権的なものではないものの、貴司のその性質を見極めてただ見守るという選択肢を取り続けることができたのが「父性」と呼べるのではなかろうか。象徴的なのは貴司が突然退職して失踪した際に、取り乱す雪乃がいかにも「母」的な存在であるのに対して、勝はそれを止めた点である。親であるならば、居所が分かった息子のところに飛んでいきたいのが本心であろう。しかし、貴司本人は、そうしたしがらみから解放されたくて命の瀬戸際にあえて立ったのだ。もし、両親が自分を迎えに来たら。生命は救われるかもしれないが、歌人としての魂は目覚めることなく埋もれていったであろう。そして、どこへも飛び立てないまま枯れてしまったのではないだろうか。それを理解し、ともすれば手を差し伸べそうになるのを我慢し、ただ待ち、見守ることもまた「父性」であろう。
 筆者がしみじみと感動させられたのは、舞と貴司の間に生まれた歩を見つめ、勝が黙って涙を流すシーンである。今でも思い出してちょっと泣きながら書いている。息子が生涯の伴侶を得、子を授かったことに対するしみじみとした喜びが伝わってきたのだ。勝はずっと、貴司のことを想い、短歌という自分には理解できない世界で己の道を追い求めるその姿を案じていたのであろう。息子を信じて見守ってきた結果、かわいい孫の歩が誕生する。勝の涙は歩の誕生と、父になった貴司という二つの存在への喜びの涙であった。
体の自由が利かなくなった祥子を迎え入れるのにあたっても現実的な意見を述べたあたりも、お好みを焼きながら「うめづ」の鉄板の向こう側の人々を見守ってきたのが垣間見えた。また、パリ行きを決めた貴司に対して、「親の責任考え」と言いながらも感情的にはならず、否定的な言葉は発しない。
最終回での台詞は「うん」「せやな」のわずか二つである。それでも物語の中においての存在感は損なわれない。能動的に何かを語ることはなくとも、そこに歩んできた人生を感じさせるところに暖かで重みのある「父性」を感じさせてくれる存在である。

3.望月佳晴 父になれない父


 舞と貴司の同級生・久留美の父である。故障によりラグビーがプレーできなくなってから定職に就けず、久留美に経済的にも家庭内でも依存している様子が見られる。
 佳晴は「永遠の少年」である。父性原理社会での競争に落伍し、妻や久留美が自分に尽くしてくれる家庭から自立を試みようとするが、それを成し遂げることは出来ない。
 河合はフォン・フランツの以下の言葉を引いて永遠の少年を説明している。
「彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼らは自分の特別な才能を曲げるのが惜しいので、社会に適応する必要はないのだと自らに言い聞かせたり、自分にぴったりとした場所を与えない社会が悪いのだと思ったりしている。ともかく、いろいろ考えてみるが、いまだその時が来ない、いまだ本物が見つからない、と常に「いまだ」の状態におかれたままでいる」
 ラグビーへの未練を捨てきれず、しかし選手として復帰することはもうかなわず、カフェ・ノーサイドに入り浸ることしかできない。定職に就くことはできず、娘とその幼馴染の力を借りて道子にプロポーズするときにも「自分の特別な才能」であるラグビーのユニフォーム姿である。
 正直、残酷なシナリオだ。久留美が長崎に行った後に佳晴は自活するわけではなく新たな「母」の膝に帰っていくだけである。ある意味で、永遠に父たりえない父としての役割を全うしていると言える。そうした残酷な面も一貫しているからこそ、「舞いあがれ!」は美しいだけの物語で終わらず、味わい深い魅力を持ったドラマになっているのかもしれない。演じる松尾諭の「いる~、こういうおっちゃん」感と、憎めないキャラクターによって中和されている部分が大きいが、役どころとしては幼さや拙さを凝縮させられた存在である。

4.才津祥子と岩倉めぐみ 父性を内包した母たち


 主人公舞の祖母・母である。舞を心配するめぐみ、めぐみの結婚を許さず絶縁してしまった祥子、いずれも強い「母性」の人であった。しかし物語の中で、彼女らが「父性」を発露し舞を、そして自分自身を前へ進ませていくのがこの物語の魅力の源泉であろう。最終週の「舞いあがれ!」のクレジット最後を飾り続けた両名である。
ドラマの序盤、たびたび熱を出す舞を献身的に看病するめぐみはまさしく「母性」の存在である。危険を排除し安全な自分の膝から離れることを許容しない。五島の校外学習でけがをした舞を見つけて駆け寄り、教師の話も耳に入らない姿はややヒステリックにも見えた。前提に挙げた河合が述べる「子どもをかかえこみすぎて、その自立を妨げるという否定的な面」というので説明されよう。
 母子密着にあっためぐみと舞を決定的に分断したのは、祖母・祥子である。めぐみの顔色を窺いつづける舞に気づき、強い言葉でそれを指摘する。祥子は夫を早くに亡くし、女手一つでめぐみを大学までいかせた人である。めぐみにとっての母であり、父の不在を肩代わりする存在でもあろう。舞とめぐみの間にあるすこし歪な母子関係を見抜き、舞の自立のためにその膝から引きはがすという行為は父性的役割である。「どがん向かい風にも負けんとたくましく生きるとぞ」の名セリフは優しい母のそれというよりも厳しい父からのメッセージである。
 めぐみの帰阪前夜、母娘で布団で寝ているシーンを、筆者は忘れられない。小さな舞が、背中からそっとめぐみに抱き着いてくる。母親ならば、向き直ってしっかりと抱きしめてやりたいはずだ。しかしめぐみは、ただじっと舞の手を握るだけである。時間にすれば数秒のシーンであったが、演じる永作博美の表情にその葛藤を感じた。一度した母子分離の決断を揺るがせまいと、自らのうちにある父性を奮い立たせているように見えた。
 五島から帰ってきた舞をめぐみはかつてのように過保護に心配することはない。人力飛行機のパイロットをやると決めた時も、大学を中退する時も、その決断を尊重して見守る。そして舞が工場を存続させたいと言ったときにも、腹をくくって株式会社IWAKURAを承継する。その後の苦難は視聴者もはらはらさせられながら見守ってきたものである。
めぐみの最大の父性的行動は、祥子の介護問題にぶちあたったときに下した決断である。「章にIWAKURAを譲る」。これ以上の「父性」の発揮はない。
浩太の遺した「子」であり「財産」でもあるIWAKURAを承継する相手として、実子の舞や悠人ではなく、IWAKURAにとっておそらく最良の引き受け手である章を選ぶ。親子の情ではなく社会での競争にさらされ続けるIWAKURAのための決断を下すのは「父性」の極みである。「主婦が家計見直すようなこと」しかできない「奥さん」から「社長」になっためぐみの歩みはとても平坦なものではないはずだし、そこに思い入れがないはずがない。亡き夫が遺した会社を、わが子に継いでほしい気持ちもあったろう。それらを天秤にかけ、厳しい競争原理に則って決断をする。めぐみの沼地をもがくようなあゆみが垣間見えるような気がした。
そして最終話、亡き夫の夢を乗せて舞は大空へと飛んでいく。永作博美の抑えきれない喜びが染み出るような、控えめなやさしい表情。ばんばの、「向かい風に負けんかったねえ」の言葉。母性の負の側面を断ち切り、父性を内包した母性へと立ち返っていく二人の母たちに見送られ、舞はIWAKURAのねじを乗せて空を飛ぶという、「ひとつめの目的地」へとたどり着くのである。

 わが子を慈しむあまり自分の膝から離さなかった「母性」の人が、競争社会を生き延び、育てたわが子たちを「父性」で送り出す。祥子とめぐみの母娘から繋がれた物語は、舞から、そして歩へつながっていくのだろうか。筆者はその先にある、厳しくも明るい未来を信じずにはいられない。そんな風に思わせてくれた「舞いあがれ!」に出会えたことは、間違いなく私の人生の幸福であると言える。素晴らしいドラマを制作してくださった出演者、スタッフへ最高の賛辞を贈りたい。


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