企業の価値と個人の尊厳

様々な議論を呼んだ老後必要貯金2000万円。 この金額が正しいと仮定して話を進める。 非常に重要なポイントは、この2000万円は厚生年金を支払った上で、この程度必要ということだ。

つまり
・厚生年金を払っているのであれば、2000万円で良い。
・厚生年金を払っていないのであれば、もっといる。
ということは明らかである。

会社で務めることの最大のメリットはどこか。お金に絞って考えれば、企業が厚生年金と社会保険料の半分を負担することにあるといえるだろう。35年間で考えると、双方合わせて数千万円分の価値があるからだ。

即ち法令に準拠して存在する企業は、従業員を雇用していること自体が、社会的に価値があるといえる。

同様に資金運用という意味でも企業は必要である。年金や社会保障に積立されているお金の多くは、資金運用がされている。(ここでは資金運用の是非は問わない。)

その資金の投資先の大部分は、国債と株式である。国債の価値は国の経済状況に基づくものであり、株式は言うまでもない。 然るに個人が経済というものに対して、投資している、していないに関わらず、法令に準拠する企業が、利益を上げていること自体、社会的に価値があるといえる。

例えばトヨタが仮に破綻し、その従業員が全員解雇され、売上シェアが全て外国に奪われたとしたら、トヨタの従業員だけが困るわけではないというのはわかりやすいではないだろうか。 その影響度が大きいか小さいかの差はあるものの、企業とはそういうものである。

「企業が善である」は、上記の通りいくばくか筋が通っているものの、とても大きな歪みが存在する。 それは格差である。 働くもの、働かないにある格差は当然であるけれども、働くもの、働かせるものにある格差は、正しいのだろうか。それが10倍であれば、許容範囲内であるかもしれない。 しかし100万倍ならどうだろう。

この問題点は大きくクローズアップされることはない。 なぜならば皆いずれかの企業に勤めているからだ。 ある社員が、役員報酬額が多すぎるといって、企業相手に戦いを挑むだろうか。答えは否である。

そのような観点で言えば、企業は、大きくなればなるほど、頂上にいる数人に膨大な血液を送り込む富の吸引装置であるとも言える。 従って末端部分は当然、作業できるだけの栄養があればよく、ぎりぎり不満が爆発しない程度を支払えばよい。

最近で言えば、娯楽は全てスマホから生み出される。安いサブスクリプションで、型落ちの映画は家で見れて、ゲームは基本無料、近場のファーストフードが家まで送り届けてくれる。 このような状態であり、しかし、満足である。
このような観点でいえば企業が悪であるという風にも思える。  

ではこのような善と悪の性質を併せ持つ企業に対して、個人が対等であるとはどのような状態であろうか。

 恐らく2点。これは個人的な経験に基づくもので根拠はない。
①自分の能力、技術、知識、知性が、企業に寄らず社会に有益であること
②自分の資産で、5年以上給与に寄らず生活できること

この両方がクリアできているとすれば、個人は企業と対等である。そして対等であるならば、企業は個人に対して、働いてくれることを恩に着せるのではなく、感謝することを選ぶだろう。

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