死の自己決定権

多くの人間が自らの意志で「いのち」を絶つ。
自殺にしたって、安楽死にしたって。
果たしてその選択は正しかったんだろうか。

僕にはどうもそうは思えない。
というのもまず、原理的に「いのち」は個人に帰属するものではなく、故に、「死ぬ権利」というのはそもそも存在しないからだ。

僕らは「自己決定権」という考え方を好む。
子供の頃からずっと、「自分のことは自分で考えて、自分の責任でもって決めなさい」、そう言われ続けてきた。
だから意思決定が個人の権利であり、それが自分の「確固とした思想」に基づいている以上、「自己決定権」はごく自然で、他者からとやかく言われる筋合いのない「絶対不可侵」なもののように思える。
実際に僕だって自らの意志でもって、今こうして文章を書いているワケだし。

だが、その「自己決定権」は「死」においては成立しない。
なぜなら、僕らは他者と影響し合うことで生きている「生身の人間」であり、単なる客観視された「細胞の集合」ではないからだ。
仮に今、誰かが目の前で死んだとしても、その人が先ほどまで息をしていて、脈も打っていた、誰かにとってはかけがえのない存在であることは変わりない。
そして人間が「生身」である以上、「死」は死にゆく人の個人的な問題ではなく、周囲にも絶大的な影響を及ぼすことだろう。

例えば自殺する人だって、自分のことだけを考えて死を選ぶのではなく、「僕が死ぬことで、あいつは一生罪悪感に苛まれながら生きるだろう」「僕が死んだら、僕の想いを人々に知ってもらうことができるんじゃないか」、というふうに他者との相互関係を考えて自殺を決意していると思う。

同様に安楽死を選ぶ人も、苦痛だけでなく、看護する家族の精神的・経済的負担も考えて安楽死を決意していて。
だから死の自己決定によって、残された家族など、周りの人間はその後の気持ちだけでなく、考え方、生き方など、何もかもが影響されてしまう。

このように、「死」が個人に閉ざされた問題ではなく、他者の人生をも致命的なまでに巻き込んでしまう問題である限り、それについての「自己決定権」は存在し得ない。

「いのち」に尊厳があるという言葉の真意は、そのあたりにあるのかもしれない。
それに、そもそも論として「死」という「不可逆的かつ理不尽」な選択をする人間が、冷静かつ合理的にすべてを考慮した上で、「確固とした思想」に基づいて「自己決定」を行うというのは本来不可能なことであろう。
にも関わらず、そこに「死の自己決定権」というチョイスがあるからこそ、あると思い込んでいるからこそ、それを無理して実行しようとした挙句、元々あるはずの生きたいという気持ちが押し殺されてしまって、「死」という選択肢が生じてしまうのだ。

では現実的な問題として、原理的に成立しないはずの「死」について考えてしまう人たちが出てくるのはなぜなのだろう。
それは、彼らが自分の「いのち」に「価値」を見出せなかったからだ。
彼らは「孤独」で、どうしようもないくらいに「孤独」で、惨めなまでに「孤独」で、それが「死」よりも怖かったんだと思う。
しかし僕は、それは単に彼らが弱い人間だったからではないと思う。

彼らを「死」へと追い込んだのは、不必要なまでに「感謝」「絆」「元気」を押し付け、「孤独」を「悪」として仕立て上げた親や学校、商業主義に走るメディアである。
常に他者と繋がっていることを洗脳された彼らは、それができなくなった自分を「欠陥製品」だと信じこんでしまうのだ。
だから人は、金がないから自殺するし、仲間がいないから自殺するし、身体が不自由だから自殺する。

しかしながら、果たして「金」「仲間」「健康」というのは、生きていく上で必須なものなんだろうか。
違う。
真に必要なものは、「自分の思想」だけだ。
先ほど、「死の自己決定権」はあり得ないと述べたが、逆説的に「自己決定」は「人間らしく生きていく」上で最も重要なものである。

だが、本当の意味で正しく「自己決定」を行うには、確固とした自分、確固とした思想が必要で、それは「孤独と向き合って考える」ことで初めて得られる。
孤独とは、単に「他者を拒絶する」ことではなく、「他者という存在を強く意識した上で、自分の立ち位置を決める」ことだ。
なのに今のパラダイムだと、孤独は「寂しく、つらく、嫌な」ものとなっているから、人は自分の眼で視て、自分の心で感じて、自分の思考で考えることを放棄して、世間体ばかり意識して行動する。
それどころか、そうやって上手くやっていこうとして失敗した「つながれなかった人間」は、居場所がなくなって、どうしたらよいか分からなくなってしまう。
それが、彼らが「死」という極端な道を選んだ所以であろう。

だから僕は言いたい。
皆もう少し孤独を受け入れよう、と。
皆もっと自分と向き合おう、と。