ピエロ

この世は舞台、人はみな役者。
僕らは一人ひとり役割を演じなければならない。
誰よりもセクシーで、クールで、リアルに。

人生は出来レースだ。
「たまたま生まれた国」
「最初から手に入れている財力」
「何もしなくたって人に好かれる外見」
「なぜか開花した才能」
「図らずも巡り会えた縁」

そういった、自分ではどうしようもない「偶然」だって立派な能力であり、個人を特徴づけている、言わばキャラ設定だ。
だからそれがどんな役だとしても、極論を言えば虫けらであっても、僕らは否応なく受け入れるしかない。
仮に、為す術なく貼られたレッテルで、とっくに勝敗はついていて、時すでに遅しだったとしても。

そのせいか、人は努力という言葉を実際以上に美化したがる傾向がある。
でも、そもそも何が努力で、何が「必然」なんだろう。
自分でコントロールできるもの、意志の強さだったり、誠実さだったり、あるいは自我だったりの境界ってどこにあるのだろう。

そんなものは、ない。
自分がどのように思考するかだって、総じてその「偶然」に左右されているという主張すらも、あながち全否定したものではないさ。
僕らの思い込みや価値観、信念といったマインドセットは、言うまでもなく、その「偶然」をベースにしているんだから。

まず、身体(からだ)や環境があって、それらの影響で自我は芽生え始めるもの。
かのゴリラ・ココが2000語以上の手話ができるようになったみたいにね。
僕らはいつの間にか、周りの期待に答えようと、好かれようとキャラを演じる。
その結果、上手く折り合いをつけることができたら社交的な人格を持つだろうし、できなかったら内向的な翳りを帯びてしまう。

「所詮僕らは、舞台で踊り続ける哀れなピエロに過ぎないんだね。自分が主役だと思い込んでるだけの」

どうしようもなく、こんなことを思わずにはいられない時だってある。
君がそうであるように。
僕だって弱い人間だから。

でもこのセリフを口にしていいのは、向上心のないやつだけだ。
結局、こんなネガティブなメタ認知の上、「誰か」の期待に応え続けても、キリがない。
だったら自分の恵まれているところに目を向け、他者を強く意識した上で自分の立ち位置を決めた方がいい。
どうせ演じるなら、喜劇を演じた方が絶対に成長できるし、それに何よりも、幸せになれるに決まってるから。

「さあ、一緒に運命に抗ってみないか? ようこそ、終わりなき研究の世界へ(Welcome to lonely my way)」