多様性について思うこと

多様性と聞くと、様々であることとか、異なる性質のモノやコトが色んな形で存在しているということだが、その定義も簡単ではない。でも、そこには色んな見方や視点、単純ではなく複雑であるという事に違いはないだろう。

ここでは、自分が生活する中で感じる多様性について書く。まず、多様であるのは、人間と言えるのではないか。人間とまとめても、性別、人種、言語、国籍、宗教など多くの要素で成り立つものである。今挙げたことはあくまでも例に過ぎず、更なる複雑性を持っている。それは区分の仕方や手法、誰が分けるかによって変わるので、上の例は氷山の一角に過ぎない。しかし、その例においても一つ一つを考慮してみれば、差異による差異を見ることができるような気もする。というのも、一つの要素が違うというだけでも差異が生まれ、同じ要素を持っていたとしても、その中での質的な差異が生まれるため差異による差異はどこまで分析できるかは簡単に測ることができないと考える。

例えば、同じ男性でもスポーツができて、身長も高く、足も早いという人もいれば、身長が低く、足も遅く、スポーツはできないという人もいる。しかし、それだけではなく、スポーツはできるけど、身長は低く、足は普通くらいというパターンもあるだろうし、スポーツはできないけど、身長は高く、足は遅いというパターンもいるかもしれない。このことを考慮してみると、「男性」と切り取っても本当に同じ男性なんだろうかとも思ってしまう。しかしながら、「男性」という枠の中にも多様性は存在し、その多様性はいかに分けて、切り取るかによっても異なってくる。そしてこれは「女性」を考えてみても同じことが言える。同じ女性でも、スポーツが好きな人はいるし、嫌いな人もいる。身長の高低もあれば、足の速さも異なる。つまり、多様性は日常の中に多くあるのだということ。

そしてこのようなことは、「男性」「女性」だけではない事は自明となる。先ほど例に挙げた、性別、人種、言語、国籍、宗教などはそのような多様性を物語る。更に、今述べた例は、人間の多様性についてだが、我々が生きる社会は人間だけで構成されているわけではない。つまり、植物、動物、微生物、天気、山、海、川、物質、空気、惑星、星など多くの要素が自分たちの身の回りの環境を形作っている。それは普段意識する事はないが、人間が生きていく上で、また植物や動物など生きている全ての生命体が生きる上で必要不可欠な前提となっているものもあるだろう。この事は当たり前かもしれないが、社会をどのように認識するかという点で凄く重要な、また多様性を考える上で外せない要素であると考える。

その様々なモノやコトが混在する中でいかにそれを認識することが良いのだろうか。それは正直なところ完全な解答はわからない。でも、多様性という言葉で語られる深みについて知る事は社会の見方を知る上で有益なのではないだろうか。そして、その見方としては実際体験してみることも大事なことではあるが、やはり時間をかけて作られてきた「学問」というテキストを通じて学んでいくことが良いのではないだろうかと思う。学問は一見、取っつきにくいように思うけど、大きく分けて、人間科学、自然科学、社会科学という3つに分けられる。それらは一言で言ってしまえば、人間について科学する、自然について科学する、社会について科学するといった具合だ。故に、日々暮らしている生活の中でふとした疑問や、気になったことなども学問と結びつく。そう考えると、より身近な事とリンクさせて親近感が湧くのではないだろうか。もちろん、全てが湧くわけではないが、経験と照らし合わせながら考える事は多様性を発見する(実は経験の中に多様性が潜んでいたんだ!等)事とも繋がるかもしれない。

むしろ、何かわからない事をわかるという事は、これまで解像度が低かったものの解像度を上げるという事と同意なのかもしれない。そしてもし解像度が上がるなら、それは多様性の解像度を上げる事とも繋がるだろう。しかし、多様性は多様であり、様々であり、色んなパターンがあるから多様性なのであり、その全てを知る事はできるのかはわからない。でもそれを知ることに人類は惹かれてきた。そんな面白く、かつ難しい、でもわかると嬉しい、そんな多様性を日常の中で、そしてテキストの中でこれからの考えていきたいと思う。