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映画『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』感想

 映画『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』、見に行ってきました!期待していたよりずっとずっと綺麗で、すごく気付かされることがたくさんあって、本当に見に行って良かった。映画館の帰りの電車の中で、ずっとぐるぐる感想を考え込んでいたんですけど、上手くまとまらないのでだらだら書いていきます。ネタバレしまくりです。でももはや夜きみの話でも無いかもしれない。あまりに私の考えが多すぎる。

 この作品の好きなところは本当にたくさんあるんですが、まずすごく共感したのは青磁のものの考え方について。すごく思い上がってる感想かもなんですけど、特に「俺が絵を描くのは、きれいだと思ったものを手に入れるためなんだけど」「俺の目に映る世界は、ぜーんぶ俺のもんなんだよ」「そいつの目に映る世界は、全部そいつのものなんだよ」ってセリフ、ほんとにほんとに分かる!って思いました。私は絵こそ描けないけど、文章を書くのは昔から好きで、どうして好きなのかっていうと、文章に書けばその対象を自分のものに出来た気がするからです。自分の表現でものを打ち出すためには対象を解釈しなきゃいけないけど、その解釈の過程がそのまま、咀嚼して飲み込んで消化して血肉にする過程だと思います。自分で表現できたってことはそれを手に入れたのも同然だと思って、だからこそ文章を書くのが私は好きです。
 映画を見ていて思ったんですけど、対象を取り込んで打ち出す行為(芸術・コミュニケーション)の効能って、まず第一に「記憶して残しておけること」なんだなと。空はすぐに様子が変わってしまって、二度と同じ空を見ることができない。綺麗な空だったらなおさらずっと覚えておきたいけど、記憶ってあんまり保たない。でも、絵に描いたり文章に書いたりすれば残しておける。私も、昔清里に旅行に行った時の星空があまりに素晴らしくて、旅行後に日記に空の様子をありったけ書いたことがあります。もう何年も前ですが、その時の日記のページを開くと、「天球まるごとラピスラズリ」「黒い布にビーズこぼしちゃった時」みたいな感じで延々と空の描写が書いてあるので、その日の夜空をまるで昨日のことのように思い出すことができます。頭に残る記憶はそんなに保たないからこそ、未来の自分も過去の自分もある意味では他者のようなものかもしれません。そして、他者の見る世界は自分の見る世界とはまるで違う。
 大事な問いとして、「どうして写真じゃだめなんですか」「なんで絵や文章でわざわざ変質させるんですか」っていうのがあると思うんですが、その回答が「そいつの目に映る世界は、全部そいつのもの」で、つまりは、世界の捉え方って全て誰かの主観でしかないし、自分にとっては主観の世界以外の世界は存在しないし、当然に他者と共有できる客観的な世界というものはない、ってことなんだと思います。自分の目を通してしか人はものを見られない、だからこそ自分の目に映る世界はたった一人自分だけのものでしかない。テクニックのない人の撮る、解釈の無い(=主観の無い)写真は言わば偽物の記憶であって、見て取ったそのままの景色はそこに復元されていない。自分の見た世界を残したいなら自分の解釈を反映させて残しておくしか無いわけで、そのやり方のうちポピュラーなものが文章を書くことや絵を描くことなんだと思います。
 「どうして芸術をやるんですか」「なぜコミュニケーションをとるんですか」の答えって、「記憶できないものを残しておきたいから」「他者と当然には同じものを見ていないからこそ自分の主観を伝える必要があるから」みたいなことだよなーって改めて自分の中で決着がつきました。整理ができて嬉しい。夜きみ、ありがとうございます。そして私はこのメモもほとんど未来の自分のために書いています。

 いま長々と述べたことを前提に、夜きみで好きだった所が二つあります。
 一つ目が、幼少期の茜が青磁にとってのヒーローで、「思っていることは言え」と言ってくれた人であり、今度は同様の言葉を青磁が茜に向けたことで茜が救われる、という構図。ここで行われたコミュニケーションは、茜から発されて、青磁に受け止められて打ち返されてまた茜に戻って行った、という図式なわけで、ここで茜は青磁を通して過去の自分と出会っているようなものだと思います。それって、茜が覚えておかなきゃいけないことをメモに取るのと似たようなことじゃないかな、そして青磁が空をキャンバスに描くのと同じようなことだったんじゃないのかな、と思います。青磁こそが茜の日記帳でキャンバスで、記憶装置で、芸術とコミュニケーションの媒質なんじゃないかなあ。
 好きなところの二つ目は、屋上で夜通しペンキを塗りあって、二人で見上げた朝焼けの空が、綺麗は綺麗なんだけど普通だったところ。茜が「今までで見た中で一番綺麗」と言って、青磁も同意するので、すごくどきどきしながら空が映るのを待っていたんですが、(めちゃくちゃ綺麗だけど)普通に、人生で何百回かは見られそうな朝焼けで、一瞬面食らったけど、すぐにそりゃそうだよなと思い直して、そこからじわじわと泣きそうになりました。撮影隊がものすごく頑張って、二度と見られないような絶景を収めたんだとしたら、青磁の「俺の目に映る世界は、ぜーんぶ俺のもんなんだよ」というセリフと食い違ってしまう。誰にとっても美しい客観的な絶景だから、茜と青磁は「一番綺麗な空だ」と思ったわけじゃなくて、思いを打ち明けあって不安を塗り込めて、二人で見上げた空だからこそ一番綺麗だと思ったんでしょう。私の目に映る空と二人の目に映る空は全然違ったものだと思うし、そしてそれこそが、絵を描いたり気持ちを言葉にしたり人とコミュニケーションを取る理由だなと思います。茜がそういう風に言わなかったら、私は茜がその空を一番綺麗だと思ったことを知らなかった。
 あとこれは余談みたいな付け加えですが、すごくときめいたところ。青磁にとって綺麗なものの一番が茜の笑顔で、二番目が空だということを踏まえながらストーリーを追っていると、青磁が茜の笑顔を手に入れられる(=再び見る)ことができるのか、という観点で作品を見ることになって、序盤は全然茜が本心からの笑みを見せないのもあいまって、最初に心の底から茜が笑うシーンが見れた時、「青磁よかったね、手に入ったね!」と結構感慨深かったんです。でもその後何度も何度も茜が笑うんですよね。最後のシーンも、とびきり華やかに笑うじゃないですか。ここ、気づいてめちゃくちゃはっとしたんですけど、青磁にとっては茜の笑顔も空も、くるくる様子が変わってひっきりなしに美しいものなんですよね。何度見たってその全てを手に入れて満足することはできないし、ずっとずっと見続けて描き続けなきゃいけないし、青磁は当然それをしたいんだろうし、と思って、めちゃくちゃテンション上がりました。笑顔も空も無限ですもんね。求め続けるの、苦しいときもあるけど楽しいだろうな。青磁、人生かけて描くメインテーマとして尽きないものを選択するの、めっちゃ芸術家としてセンスがあって最高だなと思います。

 最後に、私がこの作品で一番嬉しかったところの話です。まずこの作品、暗喩表現がめちゃくちゃすごいじゃないですか。赤と青がひっきりなしに出てくるし(全部綺麗なので色彩的にも楽しめるし、無理なく入ってきますけど)、とにかくセリフ以上に画面から伝わる情報量がすごい。序盤から、通勤通学の群れに逆行してバス停に走っていく茜が映るし、茜が気持ちを発散する屋上のシーンでは広大な空に鳥が二羽飛んでるし、赤という色ひとつとっても、自傷行為の血の色→青磁の買ってくれたマスクの色→リップの色、という風に移り変わります。廊下の暗闇から光をかざした茜が現れるシーンはメタファーのお手本みたいな感じでしたし、夕焼けの空を見て茜色に隣り合う色が青磁色だと教わった後、スマホで撮影した夕焼けの、青磁色の部分を茜が自室で拡大するシーン、あそこはかなりどきどきしました。品のない感想ですが、このシーンちょっと色っぽいというかあてられるというか、だいぶロマンティックなシーンだと思います(あと、青磁の前でしかマスクを外せない、と言ったあと、マスクに青磁が絵を描くシーンも下手なキスシーンより全然やばかった)。そして、一番分かりやすく強大なモチーフとして、クライマックスの夜空を塗り込めて朝焼けにするシーン。とにかく隠喩に溢れた映画作品だったなという印象があります。
 そんな中で、私がすごくすごく嬉しかったのは、この作品中に分かりやすい雨や曇りのシーンが一つもなかったことです。どんなに茜が苦しい時でも陽は差していた。そして、色彩がモノクロになることはなく、どんなにどんなに苦しい瞬間も、スクリーンに映る世界は美しくカラフルであったことです。
 多分小学校の国語の時間とかだったと思うんですけど、小説の情景描写について学んだことをうっすら覚えています。先生が説明の例にとったのは作中の天気。主人公がくよくよ悩んでいる時は、作中の天気は曇りや雨で、主人公の悩みが晴れると作中の天気も晴れる。一人称の小説だと、主人公の気持ちによって情景の描写のトーンが左右されて、主人公の気持ちの作中の天気が連動することがある、という趣旨の説明でした。
 でも、現実ってそんな風には行かないんですよね。死ぬほど辛い時に天気は呑気に快晴なこともあるし、雨の日だって嬉しい予定に胸を弾ませることもある。現実には一人の人間の気持ちに連動して、世界の天気が変わったりなんかしません。それどころか、客観視を強いられて自分の気持ちが分からなくなると、自身の気持ちによって現実に明暗を与えることさえ難しくなります。辛くて苦しい時も、晴れて明るく美しくカラフルな世界に存在しなければならない。茜はこの作品の主人公なはずなのに、前半部分はずっと、晴れていてカラフルな世界に置いて行かれているみたいでした。茜の主観上でも、茜の気持ちの上でも、茜の人生の上でも、茜自身が自分の主人公ではないし、ここが自分の世界だと思えていないのだ、ということをこんなに残酷に美しく、嘘をつかずに表してくれて、すごくすごく嬉しかった。小学校の国語の教材の主人公みたいに、茜は自分が苦しい時に世界を無彩色にしたり雨を降らせたりできない。そこまでの力を、青磁に再び出会うまでは持っていなかったから。すごくすごく容赦がなくて、ありのままで、だからこそすごく誠実な描写だと思いました。あの世界に、茜が苦しくて辛い時に、安易に雨を降らせないでくれてありがとう。


 一番最後に、めちゃくちゃ自分語りです。
 高校の頃、大学受験のために現代文の勉強をしていて、小説の読解問題を解いたことがあります。その日に家庭教師の先生がしてくれた説明を、私は今でも覚えています。

 私は思い出す。ある日私は十円札を一枚浴衣の袂に入れて街を歩いていた。それは戦争前の物が安く失業者の多い、平和時代の東京のことであった。着物を着て街を歩くことが多かったものだ。それは私が家庭を持つ少し前だった。私はその日、その十円で本を一冊買い、その残りで四五日生活できる予定だった。ところが本屋に入って、本を手にしてから、袂をさぐると、そこへ裸で入れておいた札が無くなっていた。電車の中で掏られたのだ。私は本を店員に返して街を出た。それは真夏の暑い日であった。敷石が少しの潤いもなく白っぽく並び、電車のレエルが青く光って熱を反射していた。

伊藤整『鳴海仙吉』

「敷石が少しの潤いもなく白っぽく並び、電車のレエルが青く光って熱を反射していた」とあるが、この表現がもたらす効果について、「私」の置かれた状況を踏まえつつ、説明せよ

 「これは夏の情景ですよね。青や白を思い浮かべた時、どういうような感想を持ちますか」と先生に聞かれて、私は「快晴の青空と入道雲です」と答えました。主人公はめちゃくちゃ落ち込んでるのに、的外れに爽やかなイメージを言ってしまったな、と思いましたが、意外にも先生は肯定してくれました。「その通りです。夏の暑い日、じめじめ潤むわけでもなくからっと晴れていて、賑やかな色で溢れている、そういう場所に惨めな自分が居る時の絶望感ってあるでしょう」
 この時、ああ良いんだ、と心の底から思いました。現代文の問題で、そこまで深く皮肉に考えて良いんだ。青と白に光る情景を見て、絶望感を覚えても良いんだ。主人公だってそういう気持ちになることがあるんだ。何十年も前の作家でも、そういう気持ちを書くことがあったんだ。
 厳しい先生だったので、もう少しまともに考えたら分かるだろう、というような調子で、真面目に、さも当然の正答のように説明したので、余計に感慨深かった記憶があります。何かに許してもらったような気持ちになりました。「どうだ世界は広いだろう」という青磁のセリフを聞いて、思い出した記憶です。茜にとっての青磁みたいに、あんなに劇的じゃなかったけど、確かに私の中で、息苦しかった世界がぐっと広がった瞬間の、大事な大事な思い出です。

 これを夜きみの感想と言っていいのか、というような文章ですが、すごくすごくよかったし、最高だった、の気持ちがちょっとでも伝われば嬉しいなと思います。朝9時の回を見てから、ぼんやり考え込んでいたらあっという間に夕方になってしまってびっくりですが、こうして打ち出せてとてもすっきりしました。

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