暴力的な「やさしい世界」

 差別はよくない、暴力はよくない、と「他者への想像力」を得た人びとが高らかに発する言葉自体には、差別をしないという選択肢をとれる、力をふるうこと以外で支配から逃れる選択肢をとれるという見えない優位性がある。

 どういうことだろうか。最近よく日常でも聞く「優しい世界」という言葉に私はうんざりしているのだと思う。私は大学で、いかに自分がこれまで無意識に人を差別してきたのかを意識するようになった。日本人、中国人、アメリカ人、男、女…国籍や性別など生まれた時に社会にあらかじめ振り分けられているもので判別することの理不尽さを学んできた。

 だけど、それはそうやって振り分けられた枠組みで判断している人たちを見下すために学んできたわけではなかった。そうではなく、その後その人がなにかしらの環境のなかでなにかしらの方法を通して獲得してきた個人、背景を含めた個人を知るほうが、もっともっと意義があると思うようになってきた。
 「女だから」「ガイジンだから」と大きな線引きをして他人を傷つけている人をみて、「そういうやつはダメだ」とまた線引きをする人がいる。繰り返されていく。だけど、女だから、ガイジンだからという言葉しか知らない人間は、その言葉でしか語れないだけかもしれない。「そんなこと言っちゃダメだ」と切り捨てることは簡単だけど、せっかく想像力を養ってきたのならば、なんでそういう考えの人間がいるのか、背景を想像したっていいじゃないか。

 だから私は個人の背景を知ることが面白かった。あなたは何者か?という問いに対する明確な答えではなく、どんな道をどう歩んできたのかに目を向けることができれば、個性など溢れすぎていることに気づく。そんなことを知ったところで「だからみんな大好き」とはなるわけではもちろんない。嫌いな部分が大部分を占めていても、好きな部分も少しだけ見つけることで自分が救われるだけである。エゴである。だが自覚していればそれでいいのである。

 だが最近よく聞くのは、そんな過程をすっとばして、自分が受け入れられる部分だけの存在意義だけを認め、それ以外は切り捨てる暴力的な「優しい世界」の言説である。「他者への想像力」を得たと過信して、自分と同じような想像力をもたない人々を蹴落としていく人たちは、自分の許せる「優しい世界」をつくりあげようとしていく。

 あなたも私と同じようにエゴでしょう。綺麗で純化されたものしか受け入れないということが気持ち悪いって言いたいわけじゃない。自分がそう無意識に線引きしてることから目を逸らして、鏡をのぞいたときにその自分を想像する「力」のなさから目をそらしていることが気持ち悪いんだ。なんて暴力的な人たちなんだろう。差別をしていることを知っていて差別をしている人も、差別をしている人を無意識に差別をしている人も、それをみて嫌悪感から抜け出せない私も、みんな気持ち悪いんだ。

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