【GHQによる日本の人口削減!】人知れず行われてきた米国による日本の人口抑制、産児制限の数々~今日の深刻な少子化はアメリカによる日本弱体化だった?!~

■「子どもは二人まで」国やメディアが「少子化を推進していた」という歴史的事実

Yahoo!ニュース 2022/1/13 荒川和久

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・「国難」と報道される少子化問題だが?

「あったのに知られていない事実」というものがある。

正確には「知らされていない事実」というべきか。

テレビや新聞などのメディアは、こぞって「少子化」や「人口減少」に対する危機を訴えている。

たとえば、以下は、今年の1月12日付の産経新聞のコラムからの引用である。

「政府与党は、突破すべき国難に日本の少子化を掲げたことを今一度思い出してもらいたい。(中略)少子化による人口減少という現実に正面から向き合い、官民を挙げて対策を講じていかねばならないはずだ」

特に、報道では、少子化や人口減少に対して、「未曾有の危機」や「国難」などという言葉とともに、まるで打開可能な課題であるかのように語られることが多い。

「がんばればなんとかなる」「努力すれば克服できる」というものではないにもかかわらず、である。

「日本の少子化が不可避である」理由については、今までも当連載で何度か書いてきた。

そのひとつが、「少母化」であり、そもそも出産対象年齢である女性の人口そのものが減少していることによるというお話もこちらの記事で書いた通りである。

→出生数が増えない問題は「少子化」ではなく「少母化」問題であり、解決不可能なワケ

実は、日本政府は「少子化を推進」していた

あわせて、女性人口が減少する起点は、「来なかった第三次ベビーブーム」であることについても触れた。

簡単におさらいすると、日本には、戦後2回のベビーブームがあった。

一回目は、戦後間もなくの1947年から1949年にかけて。二回目は、1971年から1974年にかけてで、一回目の時に生まれた子どもたちを「団塊の世代」といい、二回目の時に生まれた子どもたちは、団塊の世代の子どもたちであることから「団塊ジュニア世代」と言われた。

1990年代後半は、その「団塊ジュニア世代」の子どもたちが結婚適齢期年齢に達する頃であり、通常なら婚姻数の増加とともに第三次ベビーブームが来るはずだった。

しかし、結局それらはふたつとも起きなかった。

よって、それ以降生まれる子どもの数は減少の一途をたどり、1885年以降続いていた年間100万人以上の出生数は、遂に2016年に大台を割り、ついで、2019年には90万人すら割り込んで、現在に至るのである。

これらを前提条件として見れば、母親となるべき女性人口が減り続けている中、加えて、1980年代までの皆婚社会でもない中、どう転んでも今後出生数が増える見込みはないとわかる。

「少子化は大問題だ」「出生数の減少は国存亡の危機だ」と言うが、そもそも2度のベビーブームにあわせて、実は「日本政府は、少子化を推奨していた」という事実はあまり知られていない。

と同時に、新聞をはじめとするメディアも「少子化を促進」するような、今とは真逆の論調の記事をたくさん出していたことも、多くが認知していない事実でもある。

・GHQによる「家族計画」の推進

第一次ベビーブームが起きた1949年には、日本の再軍国主義化や共産主義化を怖れたGHQにより人口抑制や出生制限の圧力があった。

当時の吉田茂内閣はその意をくみ、国民に対して、人口増加の脅威とともに「家族計画」を広めるべく務めた。

そのサポートをしたのもメディアである。

1949年11月の毎日新聞には「とにかく人口が多すぎる。なんとかしなければ、どうにもならぬと、だれもが考えている」などという記事も掲載されていた。

事実、翌年の1950年から出生数は激減する。

1963年には「第1回アジア人口会議」がニュー ・デリーで開催され、アジアの人口増加の抑制の必要性が強調された。

家族計画や人口政策が国連関係の会議でとりあげられた最初の公的会議でもある。

そのころから、日本だけではなく、アジア及び世界の課題として人口増加が問題視されていたのだ。

余談だが、薬局で購入するのは恥ずかしいという客に対してコンドームの自販機が設置されたのもこのころ1969年のことである。

「明るい家族計画」というキャッチコピーが有名である。

・「子どもは二人まで」宣言

日本が第二次ベビーブームにさしかかった1972年には、東京では 「第2回アジア人口会議」が開かれる。

折しも、1972年には、世界中の有識者が集まって設立されたローマクラブによる「成長の限界」と題した研究報告書が発表され、「このまま人口増加や環境汚染などの傾向が続けば、資源の枯渇や環境の悪化により、100年以内に地球上の成長が限界に達する」と警告し、世界中に衝撃を与えていた。

日本では、1974年7月に「第1回日本人口会議」が厚生省や外務省の後援によって開催され、「子どもは二人まで」という宣言を出している。

中国で「一人っ子政策」が実施されたが、日本においても「二人っ子政策」ともいうべき宣言が出ていたのだ。

これに対し、読売新聞などは「子どもは二人まで。年130万人増は危険」や「危機感足りぬ日本。現状維持には一夫婦0.7人」などという煽る見出しで記事化した。

大手新聞だけではなく、「子どもは二人まで」というニュースは、北海道から沖縄までの地方新聞、社説・コラム・漫画を含め、150編以上にのぼった。

まさに国とメディアをあげての「少子化を推進する大キャンペーン」だった。

学校でも、教育の一環として「人口爆発で資源が足りなくなる」と啓蒙された。

奇しくも、2020年の国勢調査において生涯未婚率最高記録更新の立役者になった45-54歳の人たちというのは、1974年に小学生~中学生としてこの教育に触れて育った世代でもある。

・「産め」と言ったり、「産むな」と言ったり…

そして、結果から見れば、これに国民が素直に応じたことになる。

事実、グラフにあるように、そこから凄まじい勢いで少子化が進行していったわけである。

1942年「結婚報国(結婚して国に報いる)」思想の啓蒙によって「産めよ、増やせよ」と言っていた時代から、わずか30年後のことである。

こちらの記事でも紹介した通り、結婚した女性の完結出生児数は、1974年以降、きっちり「子どもは2人」で推移しているのがわかる。

ある意味、「子どもは二人まで」という宣言が、完璧に遵守されたことになる。

ちなみに、当時の識者は、「今すぐ出生抑制を実施しても、人口は2010年に1億2930万人になるまで増え続ける」と述べている。

2010年の総人口実績は1億2806万人であり、実にピタリと推計通りに進んだと言える。

戦前は「産め」といっていたかと思えば、戦後になって「産むな」という。「人口増加は国難だ」といっていたかと思えば、「人口減少は国難だ」と言う。

少子化問題に限ったことではないが、目先の情報にとらわれて右往左往せず、冷静な予測と長期的な展望に基づいて判断していきたいものである。

大事な事は「知らない事実」や「知らされていなかった事実」は、決して「なかった事実ではない」という事である。

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「子どもは二人まで」国やメディアが「少子化を推進していた」という歴史的事実
Yahoo!ニュース 2022/1/13 荒川和久




■今日の深刻な少子化は、「人口戦」の敗北から始まった――。

新潮社 『日本の少子化 百年の迷走―人口をめぐる「静かなる戦争」―』(河合雅司/著)2015/12/22

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・書籍情報

日本の人口の減少速度はこれからさらに加速し、毎年数十万人単位で減り続けることになるという。

戦争でもこれほどまでの急減をもたらすことはないだろう。

一体なぜ、ここまでの惨状を招いてしまったのか?

――実は、そこには国家の衰退を根幹から導くよう、他国より仕掛けられた「静かなる有事」が存在した。驚きの裏面史。

・目次

はじめに――“絶滅危惧種”としての日本人

第一章 人口過剰論の擡頭

第一項 明治維新がもたらした人口増

第二項 欧米にとっての脅威ニッポン

第三項 希望の大地・ブラジル

第四項 鈍かった政府の対応

第五項 解決策としての産児制限

第六項 「人口危険区域」としての日本

第七項 米英の謀略? 繰り広げられた情報戦

第八項 生き残り懸けて満州へ

第九項 人口問題解決策ではなかった満州開拓

第二章 「産めよ殖やせよ」への転換

第一〇項 人口問題解決のための戦争

第一一項 産児調節運動の弾圧

第一二項 閣議決定された人口増加政策

第一三項 国を挙げての出生増加策

第一四項 「産めよ殖やせよ」の裏にあった少子化の危機

第一五項 欧州の「人口戦」に危機感を覚える

第一六項 軍部が恐れた周辺国との出生率の差

第一七項 具体的脅威はソ連の人口増

第三章 敗戦後も続いていた“日米戦争”

第一八項 振り出しに戻った人口政策

第一九項 日本の共産国化を懸念したGHQ

第二〇項 少子化はGHQによる「人災」だった

第二一項 「日本人による産児制限」画策

第二二項 日本人協力者への接触

第二三項 優生保護法をめぐる戦い

第二四項 日本政府懐柔への秘策

第二五項 日本人の価値観を変えろ――第一ラウンドは米の勝利

第二六項 “静かなる戦争”の第二ラウンド開戦

第二七項 「産児制限」を受け入れた吉田内閣

第二八項 突如のベビーブームの終焉

第二九項 主権回復と二度目の優生保護法改正

第四章 「家族計画」という少子化推進策

第三〇項 官民挙げての産児制限大展開

第三一項 行き過ぎた少子化への懸念

第三二項 突然訪れた転機

第五章 少子化進めたオウンゴール

第三三項 政府が少子化推進の大号令

第三四項 「産めよ殖やせよ」への忌避感

第三五項 少子化対策を否定した民主党政権

第六章 ようやく動き出した人口政策

第三六項 「地方創生」という名の人口減少対策

・河合雅司

1963年、名古屋市生まれ。産経新聞社論説委員、拓殖大学客員教授、大正大学客員教授。中央大学卒業。専門は人口政策、社会保障政策。内閣官房有識者会議委員、厚労省検討会委員、農水省第三者委員会委員などを歴任。2014年、「ファイザー医学記事賞」大賞を受賞。主な著作に『中国人国家ニッポンの誕生――移民栄えて国滅ぶ』(共著、ビジネス社)、『医療百論〈2015〉』(共著、東京法規出版)、『地方消滅と東京老化――日本を再生する8つの提言』(共著、ビジネス社)など。

・明治以降の日本史を「人口」から考察する(小宮山宏)(こみやま・ひろし 三菱総合研究所理事長)波 2016年1月号より

本書は明治以降の日本史を「人口」という視点から考察した労作である。

明治維新以降、日本の人口は激増し、既に少子化による人口減少に苦しんでいた欧米列強に脅威を与えた。

これが「黄禍論」やワシントン軍縮会議、日本移民排斥、日本封じ込め政策の根本にあったという。

人口は国力であり、国防力の要諦であると考えられていた。

戦前のこのような時代背景での「産めよ殖やせよ」政策の裏で、一九二〇年をピークに日本の出生率は下落し始めた。

実は当時の人口学者は昭和一〇〇年(二〇二五年)の人口予測として、少子高齢化を警告していた。

日米間では、戦後も人口戦は続いた。

米国は日本が再び「領土的野心」を抱くことを疑い、日本の人口膨張を止めるための戦いを仕掛けたと本書は見ている。

当時人口抑制に繋がる禁断の政策と考えられていた「産児制限」をめぐる戦いだった。

本書は、GHQが実に巧妙に、その爪痕を残すことなく、あくまで日本国民自身の意思として、日本に産児制限を受け入れさせた様子を当時の新聞記事やGHQの文書から掘り起こした。

GHQはまず、医療支援や衛生環境の向上、さらには工業化政策により死亡率を低下させ「少死少産」への転換を促すなど「外堀埋め作戦」を実行した。

さらに日本人協力者をピックアップして議会に送り込み、議員立法を提出させて日本国民の意思として産児制限を合法化した。

産児制限普及の結果、団塊世代と呼ばれる第一次ベビーブームはわずか三年間で終わりを告げた。

団塊世代の最終年である一九四九年の年間出生数二七〇万人から翌年は二三四万人へ一挙に三六万人も減少し、八年後の一九五七年に一五七万人で底を打つまで落ち続けたという。

産児制限の効果がいかに絶大であったかが分かる。

日本は今、いずれの先進国よりも急激な人口減少に苦しんでいる。

人口減少は社会経済に大きなマイナス影響をもたらし好ましくない。

日本のような成熟した先進国家であれば、人口は増加せずとも安定化を図ればよく、出生率でいえば2を目指す必要がある。

これには仕事と出産・育児の両立など、働く女性への配慮が欠かせない。

OECDの統計によれば、先進国では女性の社会進出が進んでいるほど出生率が増加するという関係がある。

日本に当てはめて考えると、企業のトップ自らの決断で事業所内に保育所を作り女性の社会進出を支援し、少子化へ対峙するなどの対策が急務である。

本書を読めば、日本の少子化の原因はどこにあるのか、なぜ止まらないのか、どのような対策をとるべきかなどに無関心ではいられない。

本書は日本の少子化とその対策について、国民一人一人が真剣に考え、行動する契機となる。

小宮山宏(こみやま・ひろし 三菱総合研究所理事長)波 2016年1月号より

・トキの心配をしている暇はない、「絶滅危惧種」としての日本人

日本の少子化がいかに深刻な事態であるか、国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が出した日本の将来の人口動態推計の統計を見ると改めてゾッとさせられます。

それによると、日本の人口減少はこれからさらに加速し、毎年数十万人単位で減り続け、2041年以降は毎年100万人のペースにもなるのだそうです。

100万人といえば、どこかの県や政令指定都市が毎年一つずつなくなるようなものです。

戦争でもこんなに急激に人口を減らすことはないでしょう。

仮にこのペースで日本の人口減が進むとなると、日本の総人口は2060年に8700万人弱、2110年には4300万人を下回る計算となります。

さらに進めば、机上の計算では200年後の日本の人口は1400万人弱、300年後は約420万人に、西暦2900年には何と4000人、そして西暦3000年にはわずか1000人となってしまうことになり、日本列島からほぼ日本人が消えてしまうことを意味します。

ここまで少なくはならずとも、日本人が半減した時点で日本という国はわれわれがイメージする「日本」ではなくなってしまうことでしょう。

今の日本は、実にこのような国家存亡の淵に立たされているのです。

本書の著者、河合雅司氏は、今日のこのような事態を「静かなる有事」という強い言葉で警鐘を鳴らしています。

いったい日本は、どうしてこれほどまでの深刻な少子化に陥ってしまったのか――その答えは、日本の近代史を「人口」の観点から顧みることによって明らかとなってきます。

日露戦争の勝利以降、欧米列強は日本の人口膨張をずっと警戒の眼差しで見つめ続けてきました。

そして、それは日本の敗戦後、米国の占領下においても変わらず続けられてきたのです。

人知れず行われてきたGHQによる人口抑制、産児制限の数々の策謀と仕掛け……。

ただし、日本人もそれらGHQの仕掛けた策を否定することなく、あえてそれらに“乗った”のです。

新たな観点から読み解く日本の近現代史。その詳細は是非本書をご高覧下さい。

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今日の深刻な少子化は、「人口戦」の敗北から始まった――。
新潮社 『日本の少子化 百年の迷走―人口をめぐる「静かなる戦争」―』(河合雅司/著)





■産児制限運動

日本大百科全書(ニッポニカ)「産児制限運動」の解説

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近代化の進展によって社会問題化した、多産による女性の過重な心身の負担や家族の貧困を防ぐため、産児を制限するよう指導する運動。

アメリカ人女性M・サンガーが1914年に提唱し、日本では1918~1919年(大正7~8)に安部磯雄(あべいそお)、山本宣治(せんじ)などがこの運動を開始した。

当初は、アメリカでも日本でも保守的な勢力によって反対されたが、しだいに広範な人々の支持を得て、労働者家族の生活改善、人口問題の解決や女性の解放に重要な役割を果たすようになった。

日本では、1922年(大正11)にサンガーが産児制限運動を普及するため来日した際は、官憲に弾圧され社会問題として注目を集めた。

しかし、翌1923年に関東大震災が起こり、その救済事業とともに、この運動の必要性が再認識された。

馬島(まじまゆたか)(1893―1969)などが産児制限の方法を普及する運動を推進し、1926年には愛児女性協会を設立した。

女性運動家や自治体関係者などにもこの運動に参加するものが増加し、1930年(昭和5)スイスで開催された国際産児調節会議には、馬島とともに東京市会議員も参加した。

この会議ののち、馬島は『産児調節の理論と実際』(1931年・非売品)などを刊行して普及に努め、東京市第一助役白上佑吉、同社会局長安井誠一郎などは行政施策として取り上げようと図った。

都市部の知識層には産児制限する夫婦が増加した。

しかし、その直後から、軍国主義が強まり、中国大陸への侵略が進められたために、「生めよ増やせよ運動」が始められ、産児制限運動への弾圧が行われるようになり、1934年には馬島は堕胎幇助(ほうじょ)容疑で検挙された。

戦争が拡大するにつれて弾圧が強化され、産児制限運動は壊滅した。

第二次世界大戦後、加藤シヅエ(1897―2001)たちは、いち早く産児制限運動を再出発させ、1947年(昭和22)日本産児調節連盟を結成して全国的に普及活動を展開した。

1948年には国民優生法(1940)を改正して優生保護法(昭和23年法律156号、現母体保護法)が制定され、人工妊娠中絶が合法化された。

これによって、ベビーブーム(1947~1949)の後に、出生率は急激に低下したが、人工妊娠中絶には危険が伴うため、厚生省(現厚生労働省)は保健所を通じて、婚前学級、新婚学級、母親学級などの集団指導や個人相談などの形で、受胎調節による家族計画を指導した。

その後日本では少子化が進み、社会的な産児制限対策は行われなくなった。

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産児制限運動
日本大百科全書(ニッポニカ)「産児制限運動」の解説





■日本の少子化は、GHQによる〝人災〟だった

2016年01月05日 河合雅司 ジャーナリスト

https://www.senkensoi.net/v2/column/2016/01/051280

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なぜ日本の少子化はこんなにも深刻化したのだろう。

年間出生数が戦後最多だったのは、終戦間もない1949年の269万7,000人だ。

70年も経たないうちに約3分の1に減った計算である。

あまりに速い。

古い文献にあたって行くと、意外な事実が浮き彫りになってきた。

背後に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の関与の跡が見つかったのだ。

人工妊娠中絶や避妊による産児制限が日本に普及するよう巧妙に仕向けていたのである。

戦後のベビーブームがわずか3年間で唐突に終わりを告げたことが、何よりの証拠だ。

最終年の1949年と翌年の年間出生数を比較すると、一挙に36万人も減っている。

戦後のベビーブームは「3年で終わった」のではなく、3年で終わらせた〝人災〟だったということになる。

だが、人口の多寡が「国力」を左右した戦前・戦中においては、人為的に人口を減らす産児制限は〝禁断の政策〟であった。

占領下にあったとはいえ当時の日本政府は拒絶反応を示した。

「民族の自殺」であり、将来的な国家の滅亡につながると考えたからだ。

国会で芦田均厚相は「一度出生率が減少する傾向になった場合には、いかなる民族でも、これを人口増加の傾向に回復することが困難である」と危機感をあらわにしている。

第二次世界大戦が終わってもなお、日米間で人口をめぐる戦争が続いていたのである。

詳細については、筆者の最新刊である『日本の少子化 百年の迷走 ――人口をめぐる「静かなる戦争」』(新潮社)にまとめたので是非、そちらをお読み頂きたい。

本稿ではその一部を紹介することにする。

GHQが「人口戦」を仕掛けたのは、食糧難にあえいでいた戦後の日本で人口過剰論が擡頭したためだ。

これを放置すれば、「いずれ日本は軍事的野望を再燃させるか、共産国化に結びつく」と懸念したのである。

だが、占領国が人口抑制策を押しつけることになれば、国際社会から厳しい批判を浴びる。

そこでGHQは、日本人自身の手によって普及させるシナリオを描いた。

目を付けたのが、戦前の産児調節運動家のリーダーであった加藤シヅエ氏たちだった。

そのやりとりが、自叙伝『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』(日本図書センター)に残されているので引用しよう。

「ある日、ジープが家の前に停まりましたの。(中略)二世で、塚本太郎さんというGHQの民間情報教育局の方でした。家に上がっていらっして、こうおっしゃるの。『今日は実は、お願いに来ました』って。何事かと思いましたら、『日本に新しい民主主義の法律を作らなくてはならないので、御夫婦にいろいろな意味で相談相手になって貰いたい。非公式に顧問を引き受けて頂けませんか』とおっしゃいました」というのだ。

GHQが加藤氏たちに期待したのは、産児制限の合法化だった。

そのためには加藤氏を国会議員に押し上げる必要があった。

これについても自叙伝に生々しく書かれている。

「ある日、GHQの将軍が突然訪ねていらっしゃったんです。『どうしてあなたは立候補しないんですか』って訊かれましたので、『夫が立候補しているのに、私まで出るなんて考えられません』と申しましたら、『婦人参政権を与えよと言ったのは、あなたじゃないですか。戦前から運動を続けて来た張本人が、そんなことでいいんですか』って、懇々と説得なさるんです」というのだ。

衆議院議員となった加藤氏たちは、産児制限を認める優生保護法を成立に漕ぎ着けた。

産児制限が大きく普及したのは、日本政府が推進に転じてからだ。

占領下の日本の悲願といえば国家主権の回復だが、サンフランシスコ講和会議を前にして政府内に「独立国になるには人口問題を自ら解決できることを国際社会にアピールする必要がある」との声が高まっていたことが背景にあった。

日本政府の方針転換を受けて優生保護法に改正が加えられ、世界で初めて「経済的理由」でも中絶が認められる国になると、戦後のベビーブームはピタリと終わった。

そして、主権回復から間もない1952年5月には、「経済的理由」に該当するかどうかの判断を医師に委ねる再度の法改正も行われ、日本は今日に至る長い少子化の歴史を辿ることになったである。

GHQの働きかけは法改正だけではなかった。

「少なく産んで、大事に育てる」という考え方を定着させて行ったのだ。産児制限はGHQの生活改善運動に乗って地域ぐるみの「新生活運動」の一環となり、日本人の価値観を決定的に変化させたのが新憲法であった。日本国憲法24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」と盛り込んだことが、日本人の結婚や出産に対する考え方を大きく変えた。

結婚は人生における選択肢の一つとなり、現在の未婚・晩婚ともつながっている。

ベビーブームの終焉は、「中絶ブーム」の到来でもあった。1957年には10人の子供が生まれてくる間に7人は中絶されるという異常事態となった。

これには、日本政府も動揺を隠せなかったが、妊娠をコントロールする術を知った国民の価値観を引き戻すことはできなかった。

河合雅司(産経新聞 論説委員)

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日本の少子化は、GHQによる〝人災〟だった
2016年01月05日 河合雅司 ジャーナリスト

https://www.senkensoi.net/v2/column/2016/01/051280





■衝撃…!少子化の根本原因は、50年前の「国の政策」にあった

日本の人口を減らそうとした時代が…

週刊現代(講談社)2019.3.2

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「いまの日本の人口減少は、他の先進国に比べて異常な状況だ」と語るのは、日本の少子化の歴史を紐解いた『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書)の著者である作家、ジャーナリストの河合雅司氏だ。

「2010年の先進各国の総人口を100とした場合の、2060年の人口予測を社人研が出しています。

それによれば、アメリカやオーストラリアをはじめ、いまよりも人口が増加する国が多い。

減少するのは韓国、ドイツ、日本くらいです。

しかも、韓国は10年比で89.9、ドイツは79.1なのに対し、日本は67.7まで減少すると予測されている。

日本の減少幅が突出していることがわかるでしょう」

並み居る先進国のなかで、断トツのスピードで人口減少の道をひた走る日本。

なぜ、そんな状況に陥ってしまったのか。

「それは、戦後の日本で起きた2度のベビーブームの前後で、国を挙げて人口を減らそうとした時期があったからです」(河合氏)

・「家族計画」の名の下に

国も新聞も、日本中がこぞって「少子化対策」を騒いでいるいまの世の中と真逆のことが行われていたというのは、にわかには信じがたいが、それは紛れもない事実だ。

1947年、日本は第一次ベビーブームを迎える。

終戦による旧植民地からの引き揚げや、出征していた夫の帰国によって、夫婦による「子作り」が一気に進んだ結果だ。

この年以降、日本の出生率は上昇し、'49年には4.32を記録している。

出生数は、269万6638人にのぼる。

これは2017年の3倍近い数字だ。

ところが、翌1950年には上昇がピタリと止まり、出生数が一気に約36万人減少している。

明らかに不自然な推移だが、いったい何が起こったのか。

「複雑な要因がありますが、GHQが産児制限の普及を誘動したことにより、爆発的な中絶ブームがおこったことが一番大きい。

食糧難の中で人口が急拡大していた日本が再び軍国化することを恐れたアメリカは、中長期的に日本の出生数を抑え、人口の増加に歯止めをかけるべく、中絶の合法化や避妊知識の普及などを陰に陽に働きかけていたのです」(河合氏)

くわえて、当時のアメリカには「人口の急増は共産化に結びつく」という考えも根強かった。

アメリカにとって、日本の人口増は絶対に食い止めなければならない「課題」だったのだ。

当時の吉田茂内閣はこのGHQによる産児制限の誘導を受け入れ、「家族計画」を国民へ広めるべく務めるようになる。

そして、それに一役も二役も買ったのが当時の新聞だった。

'49年の新聞記事を見ると、いま掲載されているのはまったく逆の「人口増加による危機」を叫ぶ言葉が並んでいる。

〈文化的に内容のある生活をするためにも産児制限は有効な手段といわなければならない〉(読売新聞1月1日付)

〈とにかく人口が多すぎる。なんとかしなければ、どうにもならぬと、だれもが考えている〉(毎日新聞11月21日付)

こうした、国を挙げた「産児制限」の啓蒙によって、日本の出生率は減少のカーブを描いた。

'57年の出生数は約156.7万人。'49年からわずか8年で、100万人以上減少した計算だ。

「歴史に『もしも』はないといいますが、第一次ベビーブームがわずか3年という不自然な形で終わっていなければ、いまの日本の人口問題はもっと違った形になっていたでしょう」(河合氏)

その後、'60年代に入り、高度成長が本格化すると、急速な経済発展による労働力不足を背景に、国による人口抑制政策は次第に後退していく。

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衝撃…!少子化の根本原因は、50年前の「国の政策」にあった
日本の人口を減らそうとした時代が…
週刊現代(講談社)2019.3.2





■日本の少子化は「人災」だった 戦後ベビーブーム突如終焉

産経新聞(2016.2.20)

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・GHQ、禁断の「産児制限」

人工光に照らされた棚に、青々と育ったレタスが所狭しと並ぶ。

兵庫県養父市の旧南谷小学校の体育館。かつて子供たちの元気な声で満ちあふれていた学舎は「野菜工場」へと変貌をとげた。

子供の数が減った影響で小中学校の廃校が相次いでいる。

文部科学省によれば、公立小中学校は平成17(2005)年度からの10年で3200校近く減った。

高齢者施設やオフィス、宿泊施設、レストランなどに転用された例もみられる。

厚生労働省が年頭に公表した推計によれば、昨年の年間出生数は前年比4千人増の100万8千人。

だが、この反転は一時的なものとみられる。

子供を産むことのできる若い女性が激減していくからだ。

それにしても日本の出生数の減少ペースは速い。

戦後のピークである昭和24(1949)年の約270万人と比較すると、70年弱で約3分の1に減った。

しかも、その推移を追いかけると、気になる変化が見つかる。

24年の翌年は出生数が一挙に36万人も減り、第1次ベビーブームが突如終わっているのだ。

明らかに不自然である。

当時の資料を調べてみたところ、意外な事実が明らかになってきた。

戦後、占領政策を実施した連合国軍総司令部(GHQ)が、堕胎や避妊による「産児制限」を仕向けていたのだ。

日本の少子化は、GHQによって引き起こされた“人災”だったともいえる。

焼け野原からの再出発となった日本は、復員や旧植民地からの引き揚げ者が相次ぎ深刻な食糧難に直面した。

一方でベビーブームが起こり、増え続ける人口への懸念が広まっていた。

GHQは当初、無関心を装っていたが、21年5月に「食糧メーデー」が起こると態度を一変させた。

労働運動の広がりによる共産化への警戒だった。

発展途上国の人口急増が共産主義に結びつくという見方は戦前から強かったが、「人口が急増している日本も例外ではない」と認識したのである。

懸念はもう一つあった。

米国は国土面積が狭い割に多くの人口を抱える日本を戦前から注視していた。

GHQの報告書を翻訳した『GHQ日本占領史第4巻 人口』(日本図書センター)には、日本の開戦理由を「人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主義的政策を宣伝した」とする分析結果が残されている。

GHQの人口問題の専門家らは、戦後も「日本の人口増加に歯止めがかからなければ、将来、膨張主義が復活する」と警告した。

だが、人口の多寡が「国力」を意味した戦前・戦中において、人為的に人口を減らす産児制限は“禁断の政策”であった。

各国政府はこれを認めず、米国でもキリスト教団体を中心に反対論が強かった。

占領国が人口抑制を強要した場合、国際社会から強い非難を受けることは必然だった。

そこで、GHQは日本人自身の手で産児制限を普及させることにしたのである。

なぜ日本の少子化はかくも深刻化したのだろうか。

有効な歯止め策が見つからない今、その手掛かりを求めて、出生数が激減した根本的理由を歴史にたずねることにした。

・人工妊娠中絶、女性議員を推進役に 「日本人の意思で法制化」迫る

戦時中の新聞や書物には、「人口戦」という言葉がしばしば登場する。

相手国民を減らし、弱体化させるための作戦を展開するのだが、虐殺ではなく、経済封鎖などによって出産期の女性や小さな子供の健康に影響を与え、あるいは結婚や出産をためらわせる思想を普及させる間接的な形で実行される。

連合国軍総司令部(GHQ)も例外ではなかった。

目に留まったのは、戦前、産児制限の普及運動に取り組んでいた加藤シヅエ氏(1897~2001年)たちだった。

産児制限を合法化し日本に定着させる推進役となることを期待し、女性の立候補が認められた昭和21(1946)年の戦後初の総選挙で、加藤氏らを後押ししたのである。

加藤氏の自叙伝『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』(日本図書センター)に、詳細なやりとりが残されている。

「九月二日にはミズリー号で、降伏文書の調印が行われて、ああこれで完全に終戦だと思ってましたら、少し経ったある日、ジープが家の前に停まりましたの。

(中略)

二世で、塚本太郎さんというGHQの民間情報教育局の方でした。

家に上がっていらっして、こうおっしゃるの。

『今日は実は、お願いに来ました』って。

何事かと思いましたら、『日本に新しい民主主義の法律を作らなくてはならないので、御夫婦にいろいろな意味で相談相手になって貰いたい。

非公式に顧問を引き受けて頂けませんか』とおっしゃいました」

衆院選立候補を促す場面についても、「ある日、GHQの将軍が突然訪ねていらっしゃったんです。

『どうしてあなたは立候補しないんですか』って訊かれましたので、『夫(=加藤勘十氏)が立候補しているのに、私まで出るなんて考えられません』と申しましたら、『婦人参政権を与えよと言ったのは、あなたじゃないですか。

戦前から運動を続けて来た張本人が、そんなことでいいんですか』って、懇々と説得なさるんです」と書かれている。

GHQがこだわったのが、産児制限を認める法案を議員提出とすることだった。

「日本人自身の意思で法制化した」とする必要に迫られていたのである。

当然のことながら、占領下とはいえ日本政府は産児制限の受け入れを拒絶した。

芦田均厚相は、20年12月15日の貴族院本会議で「一度出生率が減少傾向になった場合には、人口増加の傾向に回復することは困難である。

人口が過剰であるからといって、すぐに政府が公然と産児制限を認めることは、慎重に考慮を要することだ」と答弁している。

人口の多寡が「国力」を意味した戦前・戦中において、産児制限は「民族の自殺」であり、将来的な国家の滅亡につながると考えられていた。

第二次大戦が終わってなお、日米間で国家の存亡をかけた「静かなる戦争」が続いていたのだ。

衆院議員に当選した加藤氏や医師出身議員らは精力的に動いた。

GHQ公衆衛生福祉局のクロフォード・サムス局長が記者会見で産児制限を強く促したこともあり、23年6月、日本政府の慎重姿勢をよそに人工妊娠中絶を認める優生保護法が成立した。

だが、この法律は中絶の門戸を広く開くものではなかった。

「貧困」を理由とすることを認めなかったからだ。

加藤氏らは「産児制限は文明人の有する当然の自由で、国民の基本的人権だ」と法改正を訴えた。

一方、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は米国の人口学者が産児制限の必要性を語ることを妨げなかった。

このため学者らは「日本が産児制限政策にためらい、帝国主義への回帰を忘れられず、人口増加を目指している」との報告書をまとめた。

人口学者らの見解は、主権回復を悲願としていた日本政府には重圧だった。

人口膨張を抑制できなければ、国際社会への復帰が認められないのではないか、との焦りである。

闇堕胎による女性の健康被害が社会問題化したこともあり、ついに吉田茂内閣はそれまでの政府方針を転換した。

24年4月、産児制限拡大を検討するため人口問題審議会の設置を閣議決定した。

これを受け、同年6月には優生保護法に改正が加えられ、日本は「経済的理由」で中絶が認められる国となった。

結果として、第1次ベビーブームは突如終焉(しゅうえん)したのである。

主権回復から間もない27年5月に同法は再び改正され、「経済的理由」に該当するかどうかの判断は医師に委ねられた。

それは、現在に至る長い少子化の歴史の始まりでもあった。


【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(中)

2016年02月07日 産経新聞

・料理・編み物とセットで「計画出産」講習会…政府主導で「産むな殖やすな」

占領期、連合国軍総司令部(GHQ)の仕掛けによる「人口戦」に敗れた日本に訪れたのは、人工妊娠中絶ブームだった。

その勢いはすさまじく、出生数激減に反比例するように増え続けた。

中絶の届け出件数は昭和24(1949)年の10万1601件が、翌年には32万150件と3倍増となり、28年には100万件を突破した。

「民族の滅亡」という政府首脳の懸念をよそに、多くの国民は産児制限に強い関心と期待を寄せていたのである。

当時の中絶数と出生数を足し算すると興味深い数値になる。

第1次ベビーブームの最終年となった24年の279万8239に対し、28年は290万を超え、むしろ増えていたのだ。

歴史に「もしも」はないが、爆発的な中絶ブームがなければベビーブームはもっと長く続き、現在の少子社会はかなり違った様子となったことであろう。

吉田茂内閣が24年に産児制限を受け入れて以降、終戦直後のように産児制限を「民族の滅亡」と懸念した声は次第に聞かれなくなり、むしろ政府は国民の要望に応えようと、普及に大きくかじを切った。

優生保護法の再改正(27年)で受胎調節実地指導員制度が発足すると、優生保護相談所を中心に各地で宣伝普及活動が進められた。

産児制限はやがて「家族計画」と言い換えられ、GHQによって始められた生活改善運動に乗って地域ぐるみの取り組みに発展していった。

家族計画は、受胎調節の技術指導を行うだけでなく、生活水準の向上や母体保護の知識普及、子供の教育など幅広い意味の中で使われたのである。

「政府としてはこれまでは母体保護の見地から指導してきたが、今後は人口抑制の見地に立ってさらに強力に普及推進したい」

吉田内閣の草葉隆圓厚相は29年10月5日、厚生省の会議で日本政府が産児制限を人口抑制策として推進する方針を明確に打ち出した。

それは、GHQが日本人の手で行ったことにしようと腐心した「人口抑制策としての産児制限」という目的を、日本政府が受け入れたことを意味した。

産児制限を取り上げた『昭和33年版厚生白書』は、「われわれが健康にして文化的な生活を営むためには、自らの手で家族設計すなわち適当な家族構成を考えて行くことが必要となる」と記している。

「単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」との説明だ。

厚生白書がわざわざこのような記載をしたのは、当時の日本人に避妊知識が十分に浸透しておらず、産児制限とは人工妊娠中絶のことであると誤解している人が多かったためだ。

政府は、避妊知識をどう国民に普及させていけばよいか頭を悩ませていた。

そこで考え出されたのが、国立公衆衛生院による「計画出産モデル村」事業だった。

“子宝思想”が根強く残っていた農村部を通じて、日本人に適した避妊方法を探し、中絶をどれくらい減らせられるかを調査しようという試みだ。

専門家が頻繁に現地に出向いて、地元の保健師などと連携して計画出産と受胎調節の指導を行った。

この事業は25年から7年間にわたって続けられた。

企業にも広がり、厚生省人口問題研究会の関与のもと保健師らが従業員の妻を集めて指導を行った。

企業側には、計画出産によって家庭の負担が減れば夫が仕事に専念できて生産性は向上し、医療費や家族手当などの負担軽減になるとの思惑があった。

社員や妻の抵抗感を和らげるため、受胎調節の指導は「新生活運動」と呼ばれ、栄養料理の作り方や洋裁・編み物、家計簿の付け方、電気器具の取り扱い、美容体操や子供のしつけなど多彩な講習会とセットで実施された。

講師派遣型のカルチャーセンターといったところだ。

多面的に家庭生活を近代化する取り組みとしたのである。

これらの動きを見ると、戦前の「産めよ殖やせよ」から一転して、まさに国を挙げて「産むな殖やすな」という“少子化推進運動”を展開した印象である。

32年には10人の子供が生まれてくる間に7人の胎児は中絶されるという異常事態となった。

これには、政府も動揺を隠せなかったが、「出産はコントロールできるもの」であることを知った国民の価値観を変えることはできなかった。 

(論説委員 河合雅司)


【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(下)いまだGHQの呪縛

2016年02月09日 産経新聞

・戦前は近隣諸国との出生率競争

少子化はいくつもの要因が複雑に絡み合って起こるが、未婚・晩婚化が大きな理由だ。

国立社会保障・人口問題研究所は2035年の生涯未婚率は男性29・0%、女性は19・2%に達すると予測している。

なぜ未婚・晩婚は進んだのだろうか。

ここにも占領期に連合国軍総司令部(GHQ)が仕掛けた「人口戦」の影が及んでいる。

日本人の結婚や出産に対する価値観を決定的に変えたのは、昭和22(1947)年施行の日本国憲法で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」とした24条だ。

戦時中の「家制度」の下では、結婚は家と家の結びつきであり、戸主が結婚相手を決めることに疑問を持つ者は少なかった。

ところが、憲法24条によって誰と結婚するかが個人の判断となると、「結婚しない自由」が当然のように語られるようになり、行き過ぎた個人主義ともつながった。家族を「個人」の集合体と考える人たちの登場は、現在の未婚・晩婚と無関係ではなく、少子化にもつながっている。

こうした価値観の変化は戦時中の「産めよ殖やせよ」政策への批判にもつながった。

国民の反発を恐れた国会議員や官僚は、出生数減の危機を知りながら結婚や出産の奨励政策に及び腰となり、少子化対策は後手に回ったのである。

「産めよ殖やせよ」政策といえば、一般的に国防国家体制を確立するための兵力や労働力の確保策と説明される。

16年1月に近衛文麿内閣によって閣議決定された「人口政策確立要綱」には、「今後ノ十年間ニ婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ三年早ムルト共ニ一夫婦ノ出生数平均五児ニ達スルコトヲ目標トシテ計画ス」など、実に細かな“指示”が記されている。

だが、この「産めよ殖やせよ」政策は、GHQによる「人口戦」とは別の、戦前にあった「もう一つの人口戦」の影響を強く受けていたことはあまり知られていない。

近隣諸国との出生率をめぐる戦いである。

実は、戦前の日本も少子化に悩んでいた。

人口1千人あたりの出生率は大正9(1920)年の36・2をピークに、昭和14(1939)年は26・6に落ち込むなど長期下落傾向を示していたのだ。

人口が基礎国力であり、人口差がそのまま国防上の危機に直結した時代である。

「産めよ殖やせよ」には兵士確保策としての目的はもちろんのこと、日本人口の減少に伴い近隣諸国に国力で負けることへの政府の危機感があったのだ。

17年4月に厚生省人口局が編集したパンフレット『健民運動』は、当時の政府の考えを伝えている。

「我が国の出生率が大正九年を界にして一路下降の傾向を辿り始めたと言ふ事は大いに警戒を要する事柄であつて今にして之が対策を講ずるのでなければ将来臍を噛んで後悔しても亦如何とも為す能はざるは火を見るよりも明らかである」との指摘だ。

日本の出生数が減る一方で近隣諸国の出生数が増え続ける状況を、将来の国力差につながる“脅威”として受け止めていたのである。

厚生省予防局が昭和16年に出した『国民優生図解』(国民優生聯盟)は、「我々がこれから世界の檜舞台に於いて覇を争つて行くために注目を要するのはフランスやイギリスやドイツではなく、実に同じ亜細亜にあつて日本を取り巻いて居る支那であり、ソ聯であり、印度である」と指摘している。

その上で、「出生率に於いて我が国より遥かに高いソ聯や支那、印度は更に全人口が我が国の二倍乃至四倍もある。

従つて年々に生れる赤坊の数を比較すると、我が国で一人生れる間に支那では七人生れ、印度では五人、ソ聯では三人生れてゐる。我が国が之等多産の国々に伍して大いに国運を伸ばして行く為には余程国民の自覚を必要とする」とも記している。

日本は戦後70年を経てもなお、GHQの仕掛けた「人口戦」の呪縛にある。

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日本の少子化は「人災」だった 戦後ベビーブーム突如終焉
産経新聞(2016.2.20)





■GHQによる戦後日本の経済民主化は「経済弱体化」だった

PHPオンライン衆知 2021年04月22日

田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)




■アベノミクスのワナ?「規制緩和」「構造改革」は、米国による日本弱体化戦略の一環?

Business Journal 2013.08.08


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