『変える』ということについて


例えば新規事業を創生するに当たって、様々な動機が存在する。

金が儲かればよいのであれば、それはいい。

名声が得たいのであれば、それもいい。

身の回りの人を幸せにしたいだけだというのであれば、それも構わないだろう。

『何らかの社会システムを変えたい』というのであれば、それはちょっと待ったと思う。

世の中に存在する社会システムのうちの何を変えたいのか?変えたい対象のシステムXはどういう構造で成り立っているか?

そのXは根本的にどの箇所にアプローチすることで変更可能か?

自分には見えていない、Xを内に含むもう一つ大きなシステムYがその構造を守っていて、Yに触らなければXは変化しないのではないか?

存在している、あるいは誰かが変えたいと思う多くの社会システムは可塑的ではない。

多くの社会システムが成り立っている理由はそこにホメオスタシスがあるから、つまり変化に対して元に戻ろうとする力が働くからだ。

そうでなければ小さい変化の積み重ねが簡単にそのシステムの成立を打ち崩してしまう。

思いついたアイデアがアプローチしている対象Xの外側には、膨大な世界が広がっていて、Xはそれら全てと相互作用をする関係にある。

膨大な大小のシステムの中で人間は、自国の金のために戦争を仕掛け、自分の立場を見かけ上守りたいが故に差別をし、愛玩のために殖やした動物を殺し、産業で増やした廃棄物を捨て、光化学スモッグを垂れ流し、自ら産んだ我が子を虐待し、事業のための借金を苦に自殺をし、出鱈目な金融商品で世界中から資本を巻き上げ、借金のカタで売られて麻薬漬けになり、外を歩いているだけで地雷で脚をなくし、政策上の食物流通の堰き止めで飢えて死ぬ。

アプローチしようとしているのは構造ではなく現象ではないか?

病巣ではなく症状ではないか?

Xの外により大きな力は働いていないか?

Xを回すのに必要な仕組みの外側により大きな金の流れはないか?

とすれば今考えていることは戦略でなく戦術ではないか?

戦術でなく兵站ではないか?

また、戦略がアプローチする内部の構造に対する戦術は欠如していないか?

戦術がアプローチする内部の構造に対する兵站は欠如していないか?

起業家のプレゼンテーションをいくらか見て、そんなことを考えると同時に、

『そんなことを考えずにやった奴の一部の生き残りを成功者と呼ぶ』

という大勢的な事実についても少し思索を巡らせた。
自分が成功者である必要も蓋然性もどこにもないという当たり前の結論に至った。

対象について無自覚でいられないことの方にどうやら優先度を割り当てて物事を考えているらしい。純粋に、その方向から自分の精神を呼ぶ声がし続けているからだと思う。


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