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優柔不断でいいや。

あけましておめでとうございます。

おめでとう、と安易に言っていいのかわからないくらい社会的に激動収まらない年末年始でしたが、どんな状況でも、その時だけは手放しで「おめでとう」と言い合えるウルトラCがお正月と誕生日だと個人的には思っています。

さて、生涯現役三日坊主を今のところなんの支障もなく達成しそうな自分のことなので、ご多分に漏れず前回の更新から2ヶ月近く間が空いてしまいました。

いつかの記事で、「間が空いても自分の中で種火が消えていない限りそれは継続していることになる」みたいなニュアンスのことを書いたような書かなかったような気がします。

そんな前提もあってか、更新できていない状況に対して別に以前のように余計な自己嫌悪に陥ったりはしていないのですが、結局アウトプットを出さなかった期間はそのことに対してモチベーションがなかったということに変わりはないので、なんでこんなに間空いちゃったんだろうなーと自問しておりました。

そして、それに対するわりとシンプルな答えと、今後noteを続けていくにあたっての方向性(続けてはいくつもりです)が見えてきたので、書いておきます。

まあ究極のところ、生活の収益に直結してでもいない限り、ブログに文章を書き続ける理由って自己満足なわけですよね。自分が何かを書き続けたいと思うか。

別に書き続けたいと思うものがなければブログをやめればいい。

ですが大抵の場合(というか自分の場合)、ブログを続けられないのは「一つのことを継続できる意志力」がないからだ、みたいなロジックになっていってしまう。

だからモチベーション管理のためにいろんなルーチンを自分に課したり、自己啓発的なインプットをしたりしてリポD的な活力でエンジンをかけることが多い。

自分の過去の記事とか見てると、そういう「頑張って怠け者の自分を奮い立たせねば!」あるいは「どんな形でもいいから継続させねば!」みたいな方に力が入った記事が多いなーと思います。

別にそれを否定するわけじゃないです。その時はその意思決定がベストだったと判断していたわけで、それはそれでその時の自分にとっての真実だと思いますから。そう、継続することは悪いことじゃない。一日10分を10年続けられたら誰でもプロフェッショナルになれるのだ、と吉本隆明が言っていた(と思う、確か)。

ただ、今までの考え方に圧倒的に欠如していた前提の問いがあったことに最近気づきました。

それは、

「その頑張りや縛りは、自分自身を幸福にするの?」

というごくごくシンプルな問い。

その問いにしたがって考えてみると、なんだか今まで色々自分を不幸な形で縛り付けていたものがたくさんあったんじゃないかなーと思います。

その縛りのせいで、結果的にコンスタントに文章を書く、みたいなこともできなくなってたのではないかなと。

たとえば、文章の体裁を気にしすぎて書くのに疲れていたなーとか。

「目次あったほうが読みやすいよなー。そしたら小見出しもっとわかりやすい表現にしたほうがいいなー。あ、誰かが目次を見ただけで文章の内容がわかるようにすると読みやすいとか言ってたからそれも工夫したいな。あーこのパラグラフなんか伝わりづらいなー。前のパラグラフと書く順番変えたほうがいいかなー。そしたら前後関係おかしくなるからさらにその前から書き換えないと………めんど、今日はもういいや。」

その後のこいつの歩みはご想像におまかせ。

別にプロのライターでもないし誰かにお金もらって書いてるわけじゃないんだから、文章構成とか目次あるなしとか誤字脱字とか、基本どうでもいいんですよね。こだわりがあるならやればいいし、そうじゃないなら疲れるだけだから気にしなければいい。

細かい部分が気になるって長所でもありますけど、楽しくてやってることに対してノイズにしかならないならやっぱりうまく排除していくべきで。

そういう、本来の主旨からしたらノイズにすぎないことを気にしすぎていた、結果不幸になった、みたいなこといっぱいあるなーと(noteだけでなく人生のあらゆるシーンにおいて)。

人生への抽象化は一旦置いておくとして、その中でも、

「発信の主体としての意見の一貫性を求めすぎていた」

ことはブログ継続においてかなり足引っ張ってたなーと思います。

どういうことかというと、

一ヶ月前に書いた文章と今書いている文章で言ってること違わないようにしないといけない。これを書いている「かかと」という人格がどういう色なのかをわかりやすく提示しなきゃいけない。書くテーマもなるべく独自性があって、さらに一貫しているテーマを選ばなきゃいけない。だからそういう秀逸なテーマを探すまでは文章を書いてはいけない……。

みたいな謎の思い込みのことです。

いや、そりゃあブログとして洗練させていくにあたって大事な要素なんでしょうけど、先に書いたとおりブログなんて「自分の好きでやっていること」っていうのが一番上に来るんだから、そういうクオリティに対する思い込みに縛られて書きたいことも書けなくなっていたら本末転倒でしょうよ、と。

似たようなことを以前の記事でも書いた記憶があるのですが、結局そこから根底の部分では抜けきれてなかったんだなーと思います。

もうね、支離滅裂だろうが一日前と言ってることが違かろうが、書くテーマに一貫性がなかろうが、別にいいじゃんと。

それを書くことが楽しくて、誰かに伝えたいと本気で思って書いたことなら、それはきっと価値じゃんと。

体裁を気にして形ばっかり洗練された記事より、きっとそういう熱のこもった記事のほうが誰かに届くんじゃないの?と。

だから、表題の通り自分は今後こういうグランドルールを自分に敷いていこうと思いました。少なくともブログの世界では。

優柔不断であろう、と。

書くテーマがコロコロ変わっても、全然定期更新できてなくても、前と言ってることが違くても、その時書きたいと思っていることをなるべく素直に書こう。

周りからは、優柔不断なやつと思われるでしょうが、自分的にはそのほうが首尾一貫した、地に足ついた選択だなーと思います。

なので、これから何を書いていくかはその時の自分に任せることにします。

今回書きたかったのはこれだけですが、もうひとつ自分の文章を振り返っていく中で思ったことを。

文章って不思議なもので、書きたいことが定まっていなくても、実際に書き始めていくうちにその輪郭が定まっていく、ということがあります(少なくとも自分の場合には)。

筆が勝手に書くというか(この場合はキーボードか)、文章を書くという行為を通して、シナプスが刺激されて書きたいことのアイデアが湧き出てくる、みたいなことが。

んで、そういう瞬間って得も言われぬ快感なんですよね。アドリブがうまく行ったジャズの演奏みたいで。

だからたぶん、noteに書きたくなるときって、確固たる書きたいことがあるからってだけじゃなくて、この「書きながら何かが生まれていく快感を味わいたいから」みたいな理由のときがある気がします(ていうか大抵の場合そうかも)。

んで、そういうときって大抵は、他の仕事とかアウトプットに少し食傷している時な気がします。

文章を書く、というある種のスポーツというか汗を流す行為みたいなものを求めてるのかな、と(自分の場合は絵を描く、というのもその行為に近い気がします)。

世の長く続けていらっしゃるブロガーさんたちも、そういうモチベーションがあるのかしら、とか思った次第でございます。



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