私がnoteで書きたいこと①

主張

私は(自身)の(note制作方針)について(「未だ無いものの創造」即ちセザー・ヒダルゴの言う「想像の結晶化」であると)考えます。なぜなら(私にとって最も重要な価値は「情報を育てること」)だからです。

(情報とはセザー・ヒダルゴが著書『情報と秩序』で説明している物理的秩序のことです。ヒダルゴ氏は前述の著作内で人間の活動が〈情報成長〉を加速させていると主張します。私はこの著作の中で提唱された〈情報成長〉という現象が(その言葉を知る前から)好きでした。そして情報を成長させる(育成する)行為〈想像の結晶化〉こそが私が最もやりたいと思っていたことだと気づかされたのです。)

権威付け

(若宮和男.ハウ・トゥ アート・シンキング(p.173).実業之日本社.Kindle版.)によれば(「「偏愛」や「違和感」は抵抗を乗り越えるエネルギーです。アーティストは「常識」を超えた作品をつくります。「偏愛」のモチーフ(動機)は、ほとんど病的なまでのエネルギーによって、「常識」を超えますし、他の人が「常識」に留まるとき「違和感」が、アーティストをそこから蹴り出します。」)とされています。(「情報育成」(情報成長に寄与すること、想像を結晶化することなど)はまさに私にとっての「偏愛」なのです。)

事例

かつて((小学生のころ)オリジナルガンダムのデザインをする)ということがありました。

(私は幼児のころから「かっこいいモノ」の絵を描くのが好きでロケットや車を描いて遊んでいました。そして小学生に上がったころ、父に魅せられた初代ガンダムの劇場三部作からガンダムにはまりそこから6年間はガンダムオンリーのオタクをしていました。そのためもとから絵を描くことが好きだったのも併せて毎日朝から晩までガンダムやMSを描いて過ごしていたのです。とにかくディティールを書き込み、設定を作りこんで毎日楽しく過ごしました。

しかし中学に入るころには少し風向きが変わってきます。どうにもガンダムの脚について納得がいかなくなってくるのです。ロボットアニメをたしなむ人であれば一度は通る道ではないかと思うのですが、2足歩行であることの兵器的な意味に納得できなくなってくるのです。ましてや空を飛ぶのに脚はいらないはずですし、AMBACはコジツケです。そのため徐々にガンダムから卒業してよりリアルな設定のロボットモノを探すようになり、最終的にはロボットアニメからは半分足を洗ってしまったのでした。

※ちなみにその後はまったのは「攻殻機動隊」や「電脳コイル」などのサイバーパンクモノでした。この話はまた今度。

とにかく、あのころを振り返って気づくのは「かっこいい」とは「情報の複雑さ(情報密度の高さ)」でした。もちろん今もその完成は変わりません。むしろ研ぎ澄まされてきていると思います。そしてヒダルゴが言う情報成長とはこの「情報の複雑さ」が増大することなのです。)

疑問

たしかに(「未だ無いものの創造」は困難である)という面はあります。(先人たちは多くのことをなしてきました。いまさら自分に何が生み出せるのだろうと途方に暮れることも大いにあります。絵についても高校に上がってからは描けなくなってしまいました。(つい最近、再開をもくろんだのですが半年ほどで辛くなってやめてしまいました。この話はまたどこかでするかもしれませんし、しないかもしれません。))

疑問への反論

しかし(そんなことで諦められないから「偏愛」なの)ではないでしょうか。(少なくとも、絵を描けなくなって以来、「自分にはクリエイターになれるほどの創造性はない」と思い込み絶望しながらもメモ書き1行しない日というのはありませんでした。思いついたこと(情報)を忘却の彼方に失ってしまうことが恐ろしかったからです。)

主張の繰り返し

それゆえ(私は想像を結晶化)すべきなのです。(そうしなければ生きているという実感を得られないのですから)

余談

ちなみに私は「自分にしか書けない文章」に対してのこだわりは皆無です。とにかく新しい情報を世の中に生み出すこと。そのことにしか興味がありません。なので、世のクリエイターの一部とは思想の違いで相容れないかも…ということを一瞬思いました。

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