勉強とは

主張
私は(勉強という行為)の(意味)について(渇望を満たすための模索である)と考えます。

根拠
なぜなら(活用する見込みのない勉強はその行為そのものを目的化するのでなければ徒労感を与えるもの)だからです。

定説
一般に(勉強は自由になるためにやるべき)とされています。(しかし本当にそうでしょうか?)

具体例
例えば(国立国会図書館法の前文)です。(国立国会図書館といえばホールに掲げられた「真理が我らを自由にする」という言葉がよく取り上げられます。大抵は「勉強は自由になるためにするのだ」という文脈で引用されます。

しかし国立国会図書館法の前文には「真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」と書かれています。意訳すると「真理(≒知識・勉強)が私を自由にしてくれたら自分の使命を果たしたい」と言っているわけです。つまり「自由」はあくまで通過点、使命を果たすために必要なことができる状態のことを指しているに過ぎず、ゴールは使命を果たすことなのです。

こんな格好をつけた例を出さなくても、全ての子供だった人に共通する経験もあります。それは「学校の授業が将来役に立つ気がしない、役に立たないことを学んでどうなるというのか」と思った経験です。つい先日も、私がボランティアで教えている中学1年生の女の子に高校生で習う数学を仕事で使うのかと聞かれて「使わんね」と答えることがありました。そして「えー、じゃあやらなくていいじゃん」と言われました。素直に考えると確かにそうです。しかし「そうだね」と認めると宿題をやめて遊び始めてしまうので、その場では「勉強しておかないと就職で困るし、やりたいことができた時に困るし、人に騙されるよ。だから勉強しよう」と答えました。)

疑問
確かに(勉強をしなければ就職が難しくなるし、やりたいことができた時にも取れる選択肢が減るし、騙されやすくなる)という面はあります。(それに最近では「目的」に囚われることを危惧し、行為を自己目的化して自由になろうと唱える哲学者もいます)

疑問への反論
しかし(自由になるために勉強しなさいと言われて「確かに」と得心出来る人間は実際にはそうそう)ではないでしょうか。(自由とは行動の制約がない状態ですが、そもそもやりたいことのない人間には制約の有無など関係あるのでしょうか。就職の苦労も、やりたいことに対する苦労も、意味のわからないことを強制されてやるよりよっぽど真剣に向き合えるのではないでしょうか。少なくとも私は苦労するなら意味のある苦労をしたいと思います。

それに、私は過去の文化人ほど「自由」に対する愛着は少ないです。困難な自由よりもそこそこ快適な支配の何がそれほど気に入らないのかとも思っています。デジタル植民地や信用評価経済、(ハラリのいう)データ至上主義の何が気に入らないのか、支配という基盤を覆い尽くすほどの繁栄を築けば良いだけではないか、そう思うのです)

主張の繰り返し
それゆえ(「自由」などという誤魔化しなどに逃げるのではなく、渇望に基づいて、「目的」をもって、勉強)すべきなのです。

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