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私にとってデータ至上主義とは

主張
私は(ハラリ提唱)の(データ至上主義)について(情報成長主義の誤認・理解不足の産物である)と考えます。

根拠
なぜなら(データには真善美を確定させるようなベクトル感が皆無)だからです。

定説
一般に(真善美とは価値観である)とされています。(価値観とはつまり物事の評価軸です。数直線の上でその事物がどこに位置するのかが良し悪しを決めますが、まず軸がどの点とどの点を結ぶ直線なのかが問題であり、それが真善美の問題です。詰まるところ「データ」という概念単体にはその向きを定める要素がないので主義として成立しないはずなのです。)

具体例
例えば(生物のアルゴリズム)です。(それを崇めたところで真善美は分かりません。しかし生物の進化はどうでしょうか?真善美が自ずと確定される感じがあるはずです)

事例
かつて(データ至上主義を自身を表す主義として採用する)ということがありました(ハラリは「ホモ・デウス」でデータ至上主義に否定的な見方をしていましたが、私は既にそれの特長を多く備えていましたから「これは良いものだ、というさ自分の主義の名前がようやくわかった」と喜んだのです。しかし年月が経つうちにだんだんとしっくりこない気がしてきました。そして私のこれは、私たちの世界に広がるこれは「データ至上主義」ではないと気づいたのです。)

疑問
確かに(ハラリは偉大な歴史学者であり私は(謙遜ではなく事実として)浅学非才のただの会社員ということで生み出す脳みその質も違えば、その考察に対してかけた手間暇も違う)という面はあります。

疑問への反論
しかし(偉大な先人の偉大な考察を批判的読むことは不敬ではなく寧ろ敬意を最大限に表した行為)ではないでしょうか。(なんせ思考の起点は先人なのです。我々は自力でそこまで来たのではありません。導かれた、そう言っても良いでしょう。)


主張の繰り返し
それゆえ(ハラリの言うデータ至上主義は更新)すべきなのです。

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