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No.3 "高校時代の生徒会の思い出と、2年間やってきた事を最後の日に全否定された話"

超が付くほどお久しぶりです。

気付けば3回生の春学期が終わり、就職活動が本格化してきたこの頃です。

就職活動の第一歩(かつ一番重要)と言われている自己分析をする上で、私にとって欠かせないのは高校時代、2年弱所属していた生徒会執行部での経験です。

生徒会執行部という社会組織の中で、多くのことを学びました。
今の私にとって欠かせない経験でした。

しかし、改めて思い返してみると、

「あの時あんなこと言われたけど、どう考えても先生の自分勝手だったな。」

「あの時は気づかなかったけど、先生のエゴイズムを押し付けられてたんだな。」

と思うことがあります。
当時は先生という存在が自分の所属する社会の中ではあまりにも大きく、先生の言うことが正しいと考えていました。

今更ですが、少しの抗いとして供養しようと思います。

この記事を読んで下さっている、私の生徒会時代を知っている方にとっては非常に面白い記事になるかと思います。

長くなりますがお付き合いください。

No.3 "高校時代の生徒会の思い出と2年間やってきたことを最後の日に全否定された話" 目次

①生徒会に入ったきっかけ〜1年生前期:無力だった半年

私が生徒会執行部に入ったのは入学してすぐ、1年の前期です。
自分がその年の入学生代表挨拶を務めたことで、ある先生から声をかけて頂きました。たまたま生徒会執行部の会計の枠が一つ空いているとのことだったので、特に選挙もなく入る事が出来ました。

しかし、生徒会執行部に入ったは良いものの、他の役員は全員ひとつ上の女子の方々だったので、コミュニケーションを自分から取る勇気も無く、初めの頃はひたすらモジモジしていて、先輩方や先生方に迷惑をかけてばかりでした。

生徒会として学校に貢献できたと感じたのは合唱コンクールです。
合唱コンクールのコンセプトを考える他、クラス代表との会議・看板制作・当日の進行に必要な台本の作成などの仕事がありましたが、ほとんどの仕事を先輩方がこなせてしまうので、私はただの足手まといでした。準備段階では看板の色塗りと力仕事だけしかしていなかったと思います。

そんな私を見て、当時生徒会執行部の担当の先生から、生徒会長の先輩と一緒に当日の進行の司会を務めるように指示されました。
入学式で代表挨拶を務めたとはいえ、表舞台に立つことには相当抵抗がありました。しかし、生徒会執行部の中での貢献度の低さが露呈していた事もあり、一度きりだと思って引き受けました。
台本は会長と先生によって用意されたものだったため、指定されたセリフを淡々と読み上げるだけでした。そんな台本なのにも関わらず、やらかしてしまいました。

リハーサルまでは難無くこなしていたセリフだったのですが、当日は700人を超える全校生徒とほとんどの先生方の前で立って話すという行為に対して極度に緊張してしまったことと、潜在的な滑舌の悪さが相まってセリフが崩壊し、ほとんど何を言っているのか分からない進行をしてしまったのです。

その時のことは全く覚えていないのですが、先輩いわく例年以上に盛り上がってたと教えて頂き、その後先生にはなぜか「面白かったよ」と言われました。

形はどうであれ、合唱コンクールでの司会進行を務めたことで、初めて自分らしさを出して生徒会に貢献出来たと感じました。


しばらく経って、夏期休暇から一年間で最大の行事である、文化祭の企画・運営がスタートしました。文化祭が前期生徒会執行部として最後の行事でもありました。
生徒会執行部が行うのは、全行事に共通する会議運営・進行担当、学校便りの作成などからさらに、玄関装飾の作成・前夜祭の企画・運営・オーディション、復興支援ブースの作成・当日の運営など盛り沢山でした。そのため、3ヶ月前から準備を行っていました。

流石にこの量は生徒会執行部4人のみでは到底捌き切れないので、文化祭実行委員を募り、企画・運営から当日の設営まで手伝って頂きました。

ですが、この文化祭で私が担当した仕事はこれといってありませんでした。
先輩方が文化祭に注ぐ熱量は凄まじく、到底仕事を任せてもらえるような立場ではありませんでした。

さらに、唯一の輝くチャンスのあった前夜祭の司会も、有志が現れたことでお役御免となり、任された雑務をこなすだけに戻りました。
先輩方とは打ち解けて来てはいたものの、改めて感じる貢献度の低さから、自分の生徒会活動は今期で終わりかなと思いながら作業をこなしていました。

しかし、文化祭の前日(前夜祭当日)から風向きが大きく変わりました。

まず初めに、Kさんとの出会いです。
Kさんとは玄関装飾の組み立ての際に初めてお会いした実行委員の男子の先輩で、私に気さくに話しかけて下さり、いろんな話を交えて一気に打ち解けることが出来ました。実行委員に参加していた同級生のAも混ざり、3人で玄関装飾の力仕事を行いました。

そこからKさんとAには多くの作業を手伝って頂き、本来、先生方・生徒会役員と有志の方のみで行う前夜祭のリハーサルにもしれっと同伴していました。

前夜祭は有志の方のみで行われ、生徒会役員は裏方に徹することになっていました。しかし、司会担当の有志2人が女子であり、有志の出演もほとんどが女性ということから"笑い"が一切ないという問題が発生し、前夜祭当日になってから突然司会として参加する事が決まりました。それも、私と一緒にいたKさんも同伴で舞台に上がることになったのです。
突然の事態ではありましたが、心強い同伴の先輩もいればメインの司会も2人いるということもあり、承諾しました。先輩は意外とノリノリでした。
台本は既に2人の間で割られていたため、私たちがすることといえば声出し担当と小ネタや合いの手を挟むことぐらいでした。
小ネタに関しては少ない時間で打ち合わせし、合いの手はほとんどアドリブで行いました。

結果、前夜祭は大盛り上がりで大成功となりました。
声出しは大音量、アドリブで言ったセリフはその後の司会での持ちネタになった程盛り上がりました。付け焼き刃の小ネタもしっかりと刺さり、完璧なヘルプが出来たのです。

あまりの盛り上がりに興奮を抑えきれず、その後の玄関装飾の準備中、Kさんと目が合ってはニヤニヤしていたのを覚えています。

当日は復興支援ブースの販売に力を注ぎました。
中庭という目立つ場所に設置されていたことと前夜祭の効果もあってブースの売り上げも好調で、時々募金箱を持ち歩いてはたくさんの募金をして頂きました。

文化祭が終了し片付けも終わらせた後、担当の先生2人と生徒会執行部4人でお疲れ様会を玄関指導室で行いました。
先生から頂いた苺大福を頬張りながら、どんな点が良かったか、楽しかった瞬間などをひとりひとり話していきながら、余韻を噛み締めていました。

一連の話が終わってから今後の話になり、そこで初めて3人の先輩が生徒会を引退する意向であると知りました。
前生徒会執行部の会長は2年後期まで任期を務めていたことから、そこまで続けるものだと思っていた私は驚きのあまりに頭が真っ白になりました。
担当の先生にも前もって話をしていた様でした。私だけが知らなかったのです。

先輩方が生徒会での思い出を振り返った後、先輩方と先生から私に対して
「会長やらへんの?」と聞かれました。
流石に二つ返事で決めることは出来ず、その場では「考えます」とだけお伝えしました。


文化祭の余韻もすっかり抜け、テストや課題をこなしながらも生徒会執行部への立候補が近づいていました。
学校のトップとして君臨する生徒が1年坊主で良いのか不安で、何度も考えました。

会長になる一手となったのが、前夜祭で共に壇上に上がったKさんが生徒会執行部に立候補するという事でした。
非常に頼りになる先輩が私をバックアップして下さると知り、不安を抱えつつも、覚悟を決めて生徒会長へと就任したのです。

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②1年後期:生徒会長としての成功

こうして就任した後期生徒会執行部の役員は、私が会長、Kさんが唯一の2年生で会計、副会長と書記が同級生の女子という構成となりました。

Kさんはもちろんのこと、同級生の女子2人は私より遥かに優秀だったため、指示する機会は全くありませんでした。その節は本当にありがとうございました。

後期生徒会執行部が企画・運営する行事は3年生を送る会と新入生歓迎会です。
(費やす時間の比率的には、3送が9・新歓が1ぐらいでした。)
特に3年生を送る会は、生徒会執行部がかける時間・労力は学校行事において最も大きい行事でした。

会議、有志のオーディション、卒業記念品の企画・作成、生徒会執行部から送るメッセージビデオの制作、当日進行・台本作成、フォトムービーの編集など、書き出しただけでも相当な量です。また、個人としては卒業式で使用する送辞の作成にも追われていました。どの作業も、前期の時とは違って全ての中心に立って作業をこなす必要がありました。しかし、今まで感じていた無力感などは微塵もなく、自分がやらなければならないという責任感がモチベーションとしてあったため、やりがいを強く感じる事が出来ていました。

3送の企画の中で一番時間を費やしたのが、生徒会執行部から卒業生に送るメッセージビデオの作成でした。
私が映像デザイン科に所属していたということから話が進み、先生が作成したシナリオから絵コンテを作成し、撮影・編集をこなしました。そのシナリオというのが、工芸生あるあるを面白おかしく紹介しつつ、卒業生の方にゆかりのある生徒・先生、転勤・退職された先生方もサプライズ出演する、という内容でした。

多くの企画を準備して挑んだ3年生を送る会、結果は大成功でした。
有志の方のパフォーマンスも全て盛り上がり、制作したメッセージビデオも歓声に溢れ、生徒会長しての最初の仕事で、これ以上ない結果を残す事が出来たのです。正直、1年後期の3送が生徒会活動を通しても一番ウケが良かったと思います(私以外の役員の活躍が凄かったというのが正直なところです)。

その勢いで新入生歓迎会も終え、新たな生徒会執行部募集の時期となりました。
3送での成功で自信をつけていた私は、どんな状況であっても対応出来る自信があり、昨年ほとんど参加していなかった行事の運営を、自分が引っ張っていきたいという覚悟を持ち、再び生徒会長に就任しました。

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③2年前期〜2年後期:大成功と大失敗、苦しかった1年

新たな前期生徒会執行部役員は、昨年の文化祭、Kさんと3人で力仕事した同級生のAが副会長、書記と会計に新入生の一年生の女子が2人といった構成でした。

ここからの生徒会活動はほとんどが苦しかった、苦労した思い出ばかりです。



まず、前期生徒会執行部として最初の行事である合唱コンクールで事件が起こりました。

当日の司会進行は私とAが行い、昨年の経験を生かして、時々笑いを取りつつ、締めるところは締めてと、特に不自由なく進行しました。

改めて、合唱コンクールという行事は、各学年各クラスが合唱を行い、審査員がつける点数をもとに順位をつけるといったイベントです。
全てのクラスの発表が終わった後に集計時間が生じるため、場を繋ぐ必要がありました。その時間を繋ぐための映像を、生徒会の方で事前に用意していました。

その映像というのが、「合唱コンクールへの心構え」という内容でした。先生から渡されたシナリオから私が素材を撮影、編集したものです。

改めて言うと、この映像を流すのは全クラスの発表が終わった後の集計の時間です。流すタイミングにおいて、誰が考えても疑問が残るはずなのですが、事前に決まっていた進行だったので、その時はあまり何も思いませんでした。

制作した3分ちょっとの映像が流し終わり、司会進行の私とAが壇上に上がり、それでは結果発表です・・・となる予定だったのですが、舞台袖にいた先生から言われたのは

「もうちょっとかかるから場を繋いで!」

の一言だけでした。
集計に時間がかかるというのは昨年の経験上知っていたので、自分達で壇上に上がってから話す感想や雑談を私とAの方で事前に準備していました。
しかし、感想で繋いでいても一向に審査完了の合図は無く、ひたすら
「繋いで!」
ということだけ伝えられました。

流石に繋ぐネタがなくなった私は、昨年まで生徒会執行部の担当で、今年からクラスの担任を持っていたB先生に壇上に上がって頂いては一緒に雑談をしたり、新任の先生に一発ギャグを披露して頂いたり、前生徒会で共に活動したKさんと壇上に上がって、私・Kさん・B先生の3人で合唱を始めたり・・・と、あの手この手を使って場を繋ぎました。おそらく時間にして30分弱でしたか、体感では1時間ぐらいありました。

なんとか集計が完了し、スムーズに結果発表・表彰と続き、間延びして出来た変な雰囲気も校長先生のコンパクトで粋な挨拶で場を盛り上げて頂き、合唱コンクールは終わりました。

この合唱コンクールでの出来事がその後、様々な場面で悪影響を及ぼしてきます。

合唱コンクール終了後真っ先に、B先生に謝罪しに行きました。
廊下で頭を付けて土下座しました。
B先生が壇上に上がって人前で何かをするのが苦手だと知っていたからでした。
それでも、その時の私にはKさんやB先生に頼るしか方法がありませんでした。

その場は多少のお叱りで済みました。
放課後は、Kさんに労いのご飯に連れて行ってもらう約束をしていたので、その足で集合場所に向かいました。
その途中、電話がかかってきました。C先生からでした。
C先生はB先生と共に生徒会執行部の担当の先生を務めていた先生で、その期でも担当の先生としてお世話になっており、舞台袖で「繋いで!」と合図を出してい他先生でした。
電話に出ると、C先生は号泣しながら私に対してひたすら謝罪の言葉をかけて下さりました。B先生に相当叱られたそうです。

そんな後味の悪い合唱コンクールとなってしまったこともあり、今度は失敗せずに成し遂げようと意気込んで、文化祭の準備に励みました。

私が中心となって企画したのは2つです。
まず、前夜祭の企画・運営です。
私とKさん、Aの3人で司会進行を行った他にも、校長先生をはじめとする4人の先生方にサプライズ出演して頂きました。

ここまで読んで下さっている方、覚えているかは分かりませんが、ここでお伝えしたいのは、「未成年の主張」で行った先生への告白は事前に先生を通してアポイントを取った上で、自分たちの足で先生の元に訪問し、

「当日お忙しければ来て頂かなくても大丈夫です。フラれるのも面白いので、お名前だけ貸してください。」

といったアポイントを取っているという事です。
校長先生にも同様の手段でアポイントを取りに行き、台本を持って校長室に入って
「このようにしたら絶対盛り上がります!」
と熱意を持って伝えたところ、快く出演してくださいました。
他の先生にも、同様に直接お願いしてなんとか出演してくださいました。
その努力もあって大盛り上がりでした。

あまりの盛り上がりに自信のあった小ネタを巻かなければならなかったため、そこだけが悔やまれました。

次に、復興支援ブースです。
毎年行われていた本イベントですが、他のイベントよりもさらに濃いコンセプトが必要だったため、相当な時間を要しました。
当時陸上部の顧問としてもお世話になっていたD先生が担当の先生として携わってくださり、夏期休暇の間、部活動が終わっては食堂で話し合って、企画を考えました。
そこで出来たのが、「みんなで作る復興支援ブース」という企画でした。

外観はただ色の塗られた段ボールが積み重なっただけ。
ただ、被災地の方々に向けたメッセージの付箋を貼り付けていくことで色鮮やかなブースへと変わっていくというものでした。
デザインを主とする学校に通っておきながらも、デザインセンスに自信がなかったことから、誰かの力を借りて完成するようなブースにする方法しか無かったのです。

ですが、この方法が功を通し、当日多くの方からメッセージの付箋を書いて貼って頂きました。
そして、有志の方やA、Kさんの協力もあって復興支援ブース内の商品を全て売ることに成功しました。
在学していた3年間で売り切れを記録したのは、私が企画・運営をした年だけでした。

文化祭が終了し、昨年と同じ形でお疲れ様会を開きました。
そこで話を交えながら、昨年の先輩方がおっしゃっていた引き際を、私も感じました。そこで初めて生徒会から引退することを口に出し、その場にいた1年生の女子2人に後を託しました。

一連の話の途中、B先生が偶然、備品か何かを取るために玄関指導室に入ってきました。昨年までお世話になったB先生に褒めてもらいたかった私は、B先生に

「今回の文化祭、先生から見た僕の活動はどうでしたか?」
と聞きました。しかし、そこで返って来た言葉は端的で

「うん、お疲れ。」
の一言だけでした。
その冷たさに違和感を感じながらも、生徒会の輪に戻って話を続けました。

そうして、最後の行事である文化祭で、自分の携わった前夜祭と復興支援ブースにおいては大成功と言える結果を残し、私の1年半に及ぶ生徒会執行部としての活動を終えたのです。


しかし、新たに就任した後期生徒会執行部の役員には経験の浅い生徒が多く、運営への不安要素が大きかったことから"3年生を送る会実行委員"を有志として募集するから、その実行委員長として私に参加してほしいとお願いされました。

一つ上の先輩方には、感謝してもしきれない位お世話になっていました。
その御恩を返す最後の機会だったので、実行委員長を迷いなく引き受けました。

結果から述べます。
その3年生を送る会は大成功とまでは言いませんが、ある程度成功となりました。
しかし、私としては本当に悔しい最後となりました。

まず運営です。
生徒会と実行委員で行う会議の進行は私が行い、書記を前期生徒会執行部でも共に活動し、実行委員にも名を連ねていたAが務めていました。

あらかじめ言われていたのは、私とAはあくまでも進行のみを行い、メインの企画を考えたりするのは生徒会である、ということです。
当初はそれぞれが考えてきた企画を並べてどれが良いのかを考え、いいとこ取りして、仲良く手を取り合って企画を進めていました。

しかし、問題は3送担当のF先生です。
正直、この先生とは卒業まで全くと言って良いほど意見が噛み合いませんでした。
F先生は私とAには生徒会役員の企画を促すように指示していました。

しかし、私が新たな意見を提案すると

「私が会長やったときはそういうの無かったから違うかな。」

と、昔自分が同じ立場として務めていた時の話を引っ張り出し否定してきました。

印象的だったのは、イタリア研修に参加していた私とAに、時差的にほぼ不可能なタイミングで企画に関する連絡を要求したり、イタリア研修から帰って来て即学校に呼び出されて生徒会が考えきれていない部分の企画をフォローしてほしいと頼まれた事です。
確かに、イタリア研修に参加したのは自分たちで、時差のことを考えてあらかじめ連絡をしておくという作業をこなせなかった自分達に非もありましたが、10時間以上のフライトでヘロヘロの私とAに対して、「時差ボケなどどうでも良いから会議に参加しろ」というのです。
F先生のやり方は個人的にはあまり好ましいやり方ではありませんでした。

しかし、F先生の意見には筋が通っていたので、特に歯向かう事もなく企画・運営を続けました。
それには、もう1人の3送担当だったD先生の存在が大きかったです。

復興支援ブースで結果を残したという信頼関係もあり、イタリア研修に参加していたこと、陸上部としても真面目に練習に参加していた事を考慮して接してくださり、常に「無理だけはするなよ」と励まして頂きました。
イタリア研修から帰国して即参加した会議の後、私とD先生とAで腹を抱えながら3送で使用する司会のセリフを考えました。
当日、その部分は大滑りしましたが、あの瞬間が一番楽しかったと思います。
(やはり、笑いは笑いながら作れません。)

3送の準備が本格化し、これから細かく進行を詰めていくという時の事です。
台本を詰めている時、進行役を誰に振るか考えなければなりませんでした。
これまでであれば、私がメインでサブにAをつけるといった流れでした。
特に司会に立候補する人もいなかった(私とAに譲るような雰囲気だった)ため、
「僕とAが司会やりますよ。」
と言うと、F先生が
「いや!〇〇(会長)に司会やらせよう!」
と言って、会長だった1年の女子がメイン司会となりました。

もちろん、現生徒会がすべき立ち位置であるため譲ることになりましたが、実はやりたい進行がありました。

声出しです。

ステージにおいて「盛り上がってるかあ!」という声出しのやりとりほど盛り上がる瞬間はなく、あの瞬間を作り出すことが司会のやりがいでもありました。
特に、一つ上の先輩方との最後の声出しともあれば、絶対にやりたいと思っていたのです。

そのため、「僕とAは3年生の先輩方にとてもお世話になりました。声出しだけでも良いので、僕たちにやらせてください。」と伝えました。

しかしF先生は
「じゃあ生徒会と一緒に出て声出し盛り上げて!」
という感じで、私の考えていたイメージとは違う形で声出しに参加することになりました。

決してこれだけでなく、私が考えた台本などもF先生によって
「それ会長にやらせるわ!」といって、私に手をつけさせてくれませんでした。

そして、迎えた当日。
私とAはほとんど裏方に周り、舞台に上がったのはサザエさん一家のタマ役と、声出し、最後の卒業記念品贈呈の際の司会進行だけでした(贈呈の際には生徒会役員が全員渡す役として出ていたため)。

今までの盛り上がりを最前線で体感してきた私にとって、新たな生徒会が作るイベントの雰囲気に馴染めず、あまり楽しいとは感じませんでした。
後から卒業生の先輩に感想を聞きましたが、ダラダラしている感じはしていたそうです。決してそれが悪いわけではなく、今までの私達の進行がハイペースでガンガン進めるのに対し、新たな生徒会のペースがゆっくりじっくりだったという差です。私自身、そのペースに慣れず、上手くセリフが言えなかったのを覚えています。

ここまできて初めて、私が生徒会執行部として貢献する時代は終わって、この3年生を送る会では、私とAの役割は後輩に下駄を履かせるためのポジションだと気付きました。

しかし、私がそれでも実行委員長を務めていたのは、会長時代からずっと温め続けていたメッセージビデオの企画があったからでした。
私が唯一、表現の自由を許されていた企画でもありました。

この企画の概要を事前にC先生に伝えていたことから、実行委員長を務める前からビデオの企画〜編集までの行程を全て私に任せて頂きました。

その企画というのが、先生方が卒業生の方にメッセージを伝えながらひとつのボールを繋いでいくというものです。
これまでの経験から、先生が登場した瞬間の盛り上がりに勝るものはないと判断し、人脈という人脈を使い、たくさんの先生方に協力して頂きながら、多くの先生の撮影に出向きました。企画の段階から相当力を込め、時間をかけて撮影・編集した映像ともあって、自分としては完璧な形で3年生の先輩方に届けることが出来ました。
メッセージビデオを観ている先輩方の顔を見ている時間が、これまでの苦労が報われた瞬間だったことは間違い無いです。

3年生を送る会が終了し、個人的に不完全燃焼を胸で感じている中、生徒会執行部の役員が肩の荷を下ろして喜びを分かち合ってる瞬間を見て、自分の役目は果たせたのだと納得し、その場を後にしました。

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④生徒会としての最後の日:最後に言われた言葉(見出し部分)

ついに生徒会の一線から退くということで、最後に生徒会室の空気を吸いに行きました。すると、偶然D先生と遭遇し、2人で生徒会室で反省会をしました。
D先生は私の感じていることを察してくれていました。
「お前が不完全燃焼なのは顔を見れば分かるし、お前が一番頑張って来たのも知ってる。悔しいとは思うけど、とりあえずお疲れ様。ありがとう。」
と労いの言葉をかけて頂き、私が今回の企画・運営で感じたことや当日の主観的な感想から不満まで聞いてくれました。

かれこれ2時間近くD先生と生徒会室で話をしていると、突然B先生が部屋に入ってきました。

「後で職員室に来て。」
とだけ伝えられました。

D先生との話は、生徒会の話から今後の部活動についての話に変わっていたこともあって、すぐ職員室に行きました。職員室に行くと、隣にあるパソコン室のような部屋に入る様に言われ、そこでB先生とふたりきりでの面談が始まりました。

その場でB先生に言われた言葉は以下の感じです。


「お前は生徒会に入って来てから2年間、何も変わっていない。」

「俺はお前が嫌いだし、お前のやり方も嫌い。お前のやり方を好いていない先生もたくさんいる。」

「合唱コンクール終わった後に土下座して来たけど、それでも許していない。俺の性格を知った上でしてるから悪質。」

「先生の力ばかり借りて、お前自身は何も成長していない。」

「去年担当だった時に仲良くなったと勘違いしてたら大間違い。」

「俺が今回の3送のメッセージムービーに出演せんかったか分かってるか?お前が嫌いで避けてたから。」

「今回の3送でも先生の力ばかり借りてたけど、お前は一体何をした?」


この様な言葉をたくさんかけられました。
多少文脈に違いはありますが、ニュアンスはこれで間違い無いです。
これが真実です。
入学して早々、B先生に声をかけられて生徒会に入り、B先生から渡されたシナリオを映像にし、B先生が行って来たように、先生の力を借りてきて進めてきた行事、その全てを突然、否定して来たのです。
突然の言葉に涙を抑えきれず、10分ほど言葉を発することが出来ませんでした。
なぜか、B先生も泣いていました。
そこから交わした言葉は覚えていませんが、

「来年お前がムービー作るなら、今度はちゃんと出演するよ。」
と約束して頂きました。

その一年後、私の代が送られる側となった3年生を送る会の有志ステージ及び映像作品上映において決められたルールは

「先生の出演・協力は禁止」でした。

もちろん、私が最後に制作しようとしていた企画も、B先生に出演することが前提だったため、オーディションの時点ではじかれました。

このルールを作ったのはB先生だとC先生から聞きました。

長々と話しましたが、これが生徒会執行部での思い出と、事実の記録です。
最後に怒涛の展開でしたが、思い出すと腹が立ってくるので端的に述べました。
今回、先生のイニシャルにおいては、登場する順番にAからつけているため、イニシャルに該当しません(分かる人には分かると思います)。

SNS時代、どこから情報が流出するか分からないので、もし当人にこの情報が知れ渡り、あれこれ言われたとしたら、消せと伝える前に一言でも良いので謝罪して頂きたいです。

自分のプライドのために、ひとりの高校2年間の活動を全否定し、どさくさに紛れて約束を放棄するような先生が今でも生徒の見本として何を指導しているのでしょうか。専門技術は一流でも、そういったエゴな部分を押し付ける姿は先生としてあってはならない姿です、

もちろん、私にも非がある部分が多いとは思います。
ただ、私としては、初めて生徒会長になった1年生後期、B先生が提示していたやり方をずっと模倣していただけです。多少のアレンジは加えつつではありましたが、そこから自分の色を出せなかったことは先生の仰る通りでした。
その節は申し訳ございませんでした。

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⑤最後に

そうして、高校2年間を全て否定された私は、3年生になってからは一切、生徒会執行部に関わる事もなく、生徒会長だったという肩書きもほとんど出すことなく、ひたすらクラスに時間を費やしました。
1年生、2年生の時には出来なかったことを、生徒会執行部での経験を活かして実行してきました。
その事もあって、クラスメイトには「最後の一年間、楽しかった」と言ってもらえる事が多く、本当に嬉しかったです。

そのまま大学に進学し、現在ではコロナ禍でもなんとか自分の輝ける場所を探そうと、もがき続けています。

4〜5年前の話を今更しましたが、生徒会執行部での経験は本当に貴重なものでした。社会に所属する上での楽しさや苦労、理不尽の存在を知ることが出来ました。

ここまで読んでくださった方はいるのでしょうか。

いるとすれば、こんなに長くて拙い文章を、こんな自己満足で自分語りの文章を読んで下さって本当にありがとうございます。

少しでも、あの時の私と重ねながら、自分の思い出も振り返って頂けると幸いです。

素晴らしい報告が出来る様にこれからも精進してまいりますので、応援のほどよろしくお願いします。


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