一本の芝居を観る前後で考えたこと。

DULL-COLORED POP「丘の上、ねむのき産婦人科」Aバージョンを観ました。

初ダルカラ。
観に行く気満々だったのが、直前でどうしよう?ってなった。観に行くかどうか迷った。結構本気で。そして、最終、行って良かったと思ってる。

ということを先に書いておこう。
(そして、最後まで書いてもう一つ最初に書いとこうと思った。これ、お芝居の感想じゃないです。)

大阪公演の直前、8月末です。
緊急事態宣言下の東京で、受け入れ先が見つからず死産した妊婦さんがニュースになりました。
このニュースを受けての「このお母さんは誰を恨むのだろう」というツイートを見た時、なんか引っかかったんです。
恨む?
いや、確かに、そうかも、、、でも、なんか、違うのでは?

ダルカラさんの「〜ねむのき産婦人科」は、実際の経産婦、ご夫婦にインタビューしたエピソードを再編集して演劇化したものです。
男性作家が描く妊娠と不妊と出産と、産む、産まないのお話しを『異なる性/生を想像する』をテーマに男女逆転上演(Bバージョン)など実験的な試みもされた公演でした。

正直、あまり得意なテーマではないです。
観ていて重い気持ちになるかも、嫌な気分になるかもとも思いましたが、東京公演の感想など読みながら観ておきたいと思ったのです。

が、不安になりました。
先のツイートはこの舞台の脚本演出家さんのものでした。
悪気はなく、きっと現状の行政の在り方に真摯に憤り、被害者(被害者ですよね、このお母さん)の気持ちを慮っての発言だと思います。

でも、それでも「恨む」はひっかかったんです。
このお母さんは「恨む」ところまでいけるだろうか?
誰かを、自分以外の誰かを恨むところまでいけるだろうか?
恨んでくれたら、いい。
お願いだから、自分を責めないで。
誰かを責めて恨んでいいから、自分を責めないで欲しい。

一番に「恨む」がくるのはやはり男性だからかなぁと思ったら、観るのが少し憂鬱になりました。

結局、前日まで悩んで滑り込みで予約入れました。

初めて観たダルカラの芝居は、大阪の小劇場にはない、スタイリッシュな空気が新鮮でした。

コロナ下の現在を舞台にした6組の夫婦と50年前の若夫婦、そして、未来。
実際のエピソードに即して、塩梅良くデフォルメされている感じ。
上手いなぁ。

そんな意味で言ってないのに、一人でハリネズミになってなにもかもが自分を攻撃しているようにしか受け取れない心理も、
身体が思い通りにならない、あり得ないしんどさの中での不安や理解されない絶望感、
役者さん達の上手さも勿論ですが、本当に丁寧に取材してこの脚本を書き上げたんだなぁと思いました。
丁寧に取材して寄り添ったからこそ、現状以上のことを、芝居としての希望(嘘)も描けなかったんだなあという気もしました。

ただ、ここまで寄り添える人(男性)でも、「恨む」が一番にくるのかぁ、と観劇後の帰り道で思ったりもしました。
そして、後日。
他の方の感想や考察を聞いて、もしかすると、この脚本家さんは、私と同じように、救急車でたらい回しにされて赤ちゃんを亡くしてしまったお母さんが自分を責めることなく、遠慮なく誰かを恨むことができる世の中だよね、と希望的観測も持ちつつ呟いたのかなあ、とか思い直して、ちょっとスッキリしました。
でも、やっぱり今は、多分、この脚本とツイートは関連付けられないな、と思ってます。

多分、取材をした女性の心理に寄り添うことと、否応なく「女性」「男性」として積み重ねられてきた心理に寄り添うことは別物なんだと、思ってます。

男だから、とか
女だから、とか
関係ないって言うほど簡単じゃなくて、
身体のつくりが違うことはやっぱりとても大きなことで、わかりあいにくい。
(わかりあえない、と言い切っても良いんだけど、とりあえず「にくい」にとどめとく)
同時に、
積み重ねられてきた
男としての扱われ方や
女としての扱われ方が与えている思考や心理への影響も条件反射的タイミングでは噛み合わない。

でも、キチンと対話をすれば、その事だけかもしれないけど、理解し合える寄り添えることが、脚本から感じとれた。
だから、対話を積み重ねていけば、すれ違う部分は減っていくのかもね、と思ってる。

ほら、お芝居の感想じゃなかったでしょ。




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