学習塾も学校もそういった何かを教わるための組織は、大嫌いだった。それは、「個性を潰すもの」であるから。俺は、個性や個人の考えを尊重せず自分の思い通りにするためにひん曲げて、潰すような人が嫌いだ。自分が一度、他人のものも全て確認して自分の思い通りに進まないと気が済まない人。きっと自分の納得の行かない方向や不確定要素が怖くて怖くて仕方なくて毎日怯えて暮らしていてかわいそうだなあ、と思う。昔も今も周りには少なからずいる。


 父親が嫌いだった。中学受験の時、勉強している時やわからない問題があると、ひどく怒鳴られ、ぶっ飛ばされてた。よく怪我しまくってたし、家族写真の父の顔だけぐちゃぐちゃに塗りつぶすほど恨んでいた。トラウマになっていたのかもしれない。何を言っても聞いてもらえなかったのかも今じゃ覚えてない。家中逃げまわってたけど、結局のところ自分が悪いことは自分が一番よくわかっていた。父親が口出しするのは主に、勉学とスポーツに関して。
 特別何かに恵まれているわけじゃない、普通の人。そんな自分を自分たらしめているものはなんだろうか、自分の個性とはなんだろうか。学校ではみんな同じことしか習わない。大学受験もみんな同じ物差しで計量され、合否が判定される。出身校をDisるわけではないが、入学前は、個性をとても尊重する自由な学校だと親に聞かされ、とてもワクワクしていた。でも、結局周りが行き着く先は名前が違うだけの似たり寄ったりな教育機関で、バカバカしい。それが、学校としては一番効率的なものであることはわかる。しかしそれは、個性の確立や尊重をないがしろにしていることが明らかなものだ。最小人数の教師が、抱えうる最大人数の生徒の品質管理、ひとまず勉強できればok。工場か?パノプティコンのようだ。個性とは、個人を個人たらしめているものであり、人が生きる上で教養より大切なものであるはずだ。個性とはそれほどに意味がある。最近の教育機関は「より本質的な個性の尊重」を諦めた。個性とは酸っぱい葡萄だ。手に入らないくらい高いところになってしまった葡萄を見て、届かないからあのブドウは酸っぱくてまずいんだと、だから欲しくはないといっている。彼らはキツネそのものだ。そこらへんの教育機関は、手に入らないから最初からなかったことにしている。
 

 母校がテニスの強豪校だった。そのため、周りはみんな強く、みんな部内では何かしらで1番だった。自分の個性とはなにか、自分の強みとは何か、全くわからず、いつしか僕は、孤独感を抱いていた。部内に友達がいなかったのではなく、この部活にどういった価値を発揮しているのか、テニスは弱くても、部を活気づけている友人を見て情けなくなったのを覚えている。こういった中高時代を送りながら、気づけばどこか虚ろになっていた。どんな才能や能力にも代替品がある。悪くなった友人関係も、気づけばそれまで赤の他人だった人と親密になっている。これまでとても仲が良かった人間を差し置いて。そういう風に、どんな関係にも代わりがあって取り替えが効いてしまう。そんなに寂しいことはあるか?


そちら側が求めてるのは、最低条件をみたす「誰か」だ。俺は俺。その誰かがいいのなら他の「誰か」にしろ。俺はその誰かじゃない。馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。気付かないとでも思っているのか?しょうもない嘘で表面取り繕っても、包丁で切ってしまえば中身出てきて全部一緒。割って見てみりゃその中には想像とは別の世界が広がっている。そこまでこだわる理由も分かる。今のうちに会いに行っとけよってなるよね。もうすぐ離れちまうよ〜ってね。

目を背けること以外に痛いことはない。目の届かないところでぬくぬく育って肥大化するそれは、後で背後から降りかかる。年齢は生きた年数は教えてくれても、どう生きたかは教えてくれないからね。俺がこんなにも若く未熟であることが、完全無欠の完璧な老いさらばえたジジババや、全てを知った気でいるクソガキや、俺を騙し切っていると自己を過信する輩には、どうしても許しがたいんだろうなあ。