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独り歩きする格言たち

3月は卒業、4月は入学や入社の季節であり、えらいひとたちによる式辞で溢れる季節となった。こういった式辞に欠かせないのが格言、というか古典からの引用である。だいたい「昔えらい人がこういった→これはこういう意味だ→これは現代にも十分通用する格言だ→最後に激励的なもの」的な構成を取ることが多い。

そんななか、ちょっと変わった式辞を見つけたので紹介したい。平成26年度の東大教養学部学位記伝達式(=卒業式)の式辞である。

平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

この式辞は面白いので是非全文読んで欲しいのだが、要約すると

・ 1964年、東大の卒業式で当時の総長である大河内一男氏が「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」と言ったことになっている

・ しかし、この言葉は大河内氏の言葉ではなく、J. S. ミルの「功利主義論」の引用である

・ 式辞の原稿を見ると「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」とあり、「なれ」という命令形になっていない

・ さらに、ミルの原著では「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」と、かなり違ったニュアンスの文章になっている

・ さらに言うと、式辞の原稿にはこの言葉はあったが、本番の卒業式では省略され、大河内氏は発言していない

つまり、「1964年の卒業式で東大総長が『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という文章には、「東大総長の言葉ではない」「引用が不正確」「そもそも言ってない」と間違いが三つもある。おそらく式辞の原稿をもとに、新聞などのメディアが拡散し、この「格言」が今に至るまで語り継がれているらしい。

この話を聞いて思い出したことがある。やはりある大学の式辞で、えらいひとがデカルトの方法序説を引用し、おおよそ以下のようなことを言ったそうだ。

・ デカルトの方法序説には「優れた人がこの世にいるとしたら、彼らのためにできることは、 必要とする実験の費用を負担し、かつ自由に時間を使えるようにすること以外にはない」とある

・ つまり、研究者の人材育成のためには、自由な研究時間と研究費の確保が重要である

・ デカルトが数百年も前に明確に指摘していることが、今持ってまったく色あせていない

・歴史に学ぶべし

これは冒頭に述べた「昔えらい人がこういった→これはこういう意味だ→これは現代にも十分通用する格言だ→最後に激励的なもの」というテンプレに従っている、典型的な「古典引用型式辞」である。

さて、この「研究者の育成のためには余計なことをせず、自由な研究時間と研究費の確保に専念したほうが良い」という主張には同意するのだが、原著でどういう扱いだったが気になって調べてみた。原著はフランス語で、同時期にラテン語に訳されたらしいが、僕はどちらも読めないので The Project Gutenbergの英語版を見る。 該当部分は第六部の以下のところのようだ。

So that if there existed any one whom we assuredly knew to be capable of making discoveries of the highest kind, and of the greatest possible utility to the public; and if all other men were therefore eager by all means to assist him in successfully prosecuting his designs, I do not see that they could do aught else for him beyond contributing to defray the expenses of the experiments that might be necessary; and for the rest, prevent his being deprived of his leisure by the unseasonable interruptions of any one.
いい加減な訳:もし間違いなく最高級の発見ができるような人がおり、かつその発見はこの世に計り知れない効用をもたらすと確信できるとしよう。それがゆえに、他の人がその人の成功のためにあらゆる助力を惜しまないとしても、できることといったらその優秀な人が必要な実験の費用に困らないようにし、かつ他の人から邪魔されないようにすることくらいしか私には思いつかない。

というわけで、ここだけ読むと「優れた人はお金と時間だけ用意して放っておけ」という文章に読める。しかし、この文章が「方法序説」の第六部にかかれている、ということが気になった。方法序説の第六部とは、大雑把にいえばデカルトが、なぜ自分が方法序説の出版に至ったかを語るところである。この文章の前には、真理を探求するのに人の力を借りるのは多くの場合無駄である、と書いてある。 そして該当文章の直後には

But besides that I neither have so high an opinion of myself as to be willing to make promise of anything extraordinary, nor feed on imaginations so vain as to fancy that the public must be much interested in my designs

という文章が続いている。つまり「私は自分がそんな『特別優秀な人間である』と思うほどには自惚れていない」といったことが書かれている。原文ではさらに「しかし自分が全く無価値であるということを受け入れられるような魂も持っていない」とある。要するに「自分の考えを出版すべきである(=自分は優秀な人間である)」とも思えないが「自分の考えなど出版するに値しない(=自分は無価値な人間である)」とも思えない、という葛藤の表現のように思える。

その次のパラグラフには

These considerations taken together were the reason why, for the last three years, I have been unwilling to publish the treatise I had on hand, ...

つまり、「そんなことをうだうだ考えてたので三年間出版をためらっていたよ」的なことが書いてある。

ここまで来て、また引用された部分を読み返すと「本当に優秀な人であればお金と暇だけ与えて放っておけば良いが、自分はそこまで優秀な人間ではない」という、一種の謙遜表現であることわかる。少なくともデカルトはここで「優秀な人はお金と暇だけを与えて放っておけば良いのに、多くの場合無駄な義務を課して邪魔するばかりである」ということは主張していないように読める。

こういう「言葉の独り歩き」のプロセスは興味深い。言葉が独り歩きするためには、まず言葉を発した本人が有名でなくてはならない。そして、その言葉が時代を越えてキャッチーでなければならない。時代を越えてキャッチーであるためには、その文章が抽象的である必要があり、抽象的であるがゆえに発言者の意図以上の(もしくは意図していないもの)が汲み取られるようになる。そして、それぞれの時代、場所、人にあった解釈がなされ、元の意図を離れて独立した「なにか」として命のようなものを持つ・・・

僕は「だからこの引用は間違っている」と主張したいわけではない。言葉とはそういう物なのだと思う。言葉とは情報を伝える約束事に過ぎず、同じ言葉が時代や場所により異なる意味を伝えるようになる、というのはよくあることだし、逆に「言葉には永遠不変の意味がある」と思う方が不健全な考えであろう。

もちろん、ここでの僕の解釈も、誤訳、誤解、そして僕のバックグラウンドにより元の意図を外しているかもしれないが、そういうものである。時代を越えて伝わる「格言」は、時代ごとに、受け取る人ごとに異なる意味合いを持つし、むしろ持って良い。

最後に、冒頭に述べた平成26年度の式辞の結びの部分を引用したい。

...ともあれこの壇上から式辞を述べるのも、これが最後の機会となりますので、私は大河内総長の「痩せたソクラテス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。
それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。
きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください。
もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。

教養とは、古典を知っていることでも、適切に引用できることでもないのだ、というメッセージが伝わる気がしませんか?この式辞を聞いた学生さん達、こういう教育を受けられる場所にいられたことは幸せなことだと思う。

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