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「未希の家」を訪問して

 私は約3年前に東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町を訪れました。そして、小学校の道徳の教材になった「最後のアナウンス」の故・遠藤未希さんのご両親が経営されている「未希の家」を訪問しました。

①南三陸町訪問
 まず、私は乗り継ぎに乗り継ぎを重ねて、BRTで南三陸町の志津川駅に着きました。未希さん始め多くの職員が亡くなった防災対策庁舎に黙祷を捧げ、志津川で写真館等を訪問した後、未希さんのお父様、清喜さんがお車で私を迎えに来てくださいました。「未希の家」への道中、清喜さんは「普段はこんなに穏やかな海なのにね…」とおっしゃいました。津波がどの高さまで来たのか示すラインはあったもののあの日多くの尊い命を奪った海は静かに夕焼けに映えていました。多くの命を奪った海なのに憎く思えない、そして人間の力は本当に小さい、自然の大きさを強く感じた瞬間でした。
②遠藤未希さんの軌跡
 遠藤未希さんは、1986年南三陸町の病院で産まれました。「未来に希望を持って生きて欲しい」との願いが込められていたようです。未希さんは専門学生で知り合った男性と、2011年9月に結婚式を挙げる予定だったようです。しかし、2011年3月11日に戦後最大にして最悪と言われた東日本大震災が東北を南三陸町を襲いました。未希さんは町役場の職員として防災無線を通じて町民に津波から避難するよう呼びかけました。津波が襲来する直前までずっと…
震災から約1ヶ月後に未希さんはご遺体として発見されました。ご主人からのプレゼントであるミサンガが左足首に巻かれていたことから特定されたようです。多くの町民が「あのアナウンスがあったから私たちは助かった」と感謝し、悼みました。未希さんのご遺体の出棺の時、雨が降っていないにも関わらず、空には一筋の虹がかかりました。
③ご両親との会話を通じて
「未希の家」に着くと未希さんのお母様、美恵子さんが出迎えてくださいました。着いてしばらくすると夕食の時間。食卓には三陸の海の幸が並びました。今まで経験したことないような美味しさでした。海鮮があまり好きではなかった私もおかわりをお願いしたくなってしまうくらい、本当においしく頂きました。それからも海鮮は食べましたが、この「未希の家」で頂いた海鮮以上の海鮮は存在しません。夕食の後、「あの日(3月11日)は何をしていたか」という話や未希さん以外にもたくさんの方が亡くなった話をお聞きしました。翌日、遠藤さんご夫妻のご厚意で多くの児童・教職員の命が失われた大川小学校に連れて行って頂けることとなりました。大川小学校では私の同世代の大切な仲間たちがたくさん亡くなりました。本来、ともに夢を抱き、同じ未来を描くはずであった人たちです。彼らの無念を思うと本当に悔しく、悲しいです。壊滅した校舎はもちろんですが、かけがえのない仲間たちを失った現実は写真越しとは桁違いの重みを受け取りました。大川小学校に向かう前の朝食の時間には美恵子さんから温かくも力強いお言葉を頂戴しました。「私は何としてでも未希に生き抜いてほしかった。いくら仕事だったとはいえ死なないで欲しかった。あなたは将来、先生になって多くの子どもたちや、結婚して家族を持つことになると思うんです。どうか、何としてでも生き抜いてください。生きていたらいくらでもいいことはあるのだから。」と。私は辛い時、何度もこの言葉を思い出しては励まされました。先程、言いましたが、私は教員を目指しています。宮城で教員になりたい、遠藤さんご夫妻に恩返しをしたい、未希さんが守りたかった町を、人を、大川小学校で亡くなった仲間が愛した町を、抱いた夢を守り抜きたい。それが私に出来る未希さんや大川小学校の仲間たち、被災者の皆様への供養であり、遠藤さんご夫妻への恩返しであると思っています。必ず有言実行します。どうか天国で見守っていてください。あなたたちの笑顔を私は守り抜きます。合掌

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