松村先生動画、精神病と精神世界の違い。三分節の解体、再構築についてなど

松村潔氏「20230626精神病と精神世界の違いがわからない人」
の動画がとてもよかったので、
途中から、1時間6分ごろまで文字起こしをしてみました。 
適当に切ったり、入れ替えたり、文字を足したり引いたりしています。
まだ修正が必要なのですが、疲れたので諦めてアップ。

三分節の解体と再構築には、以前から興味をむけているにもかかわらず、
あまり参考文献がないので、非常にありがたかったです。

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<三分節の解体と再構築>
一度解体した後、そのままにしないで再構築する。
<なぜ解体する必要がある?>社会的に成長してきた人間に対してなぜ?
客観知識から照らし合わせて世間的なところで成長してきた人達というのは、場当たり的な結晶化をしているという風に考える。
場当たり的結晶化をしているのがなぜ悪いかというと、それ以上の発達をしないから。

<客観意識とは>
ある種の宇宙法則、客観知識、客観法則。場所、時代が変わっても変化しない法則、知識。



ピアノでの例。
自己流でピアノを練習すると、ある段階で成長が止まる。変な癖がつく。
それを一度全部切り崩して、改めて初歩的な所から練習する。

それと同じように、世間的なところでの学校、対人関係、社会との関係で作られていったものは、世間的主観性が色濃い。
そういう世間は超越的な世界という項目が全然入っていない。
 しかも自己実現というのも、社会の範疇に照らし合わせたところでの自己実現しか認めない感じになっているので、頭打ちな状態。

そういう所でまともだと思われている物を度壊す。

<三分節>
思考、感情、身体。ヨガで言うところの馬車、馬、御者

この三つが妙な結合をしている。

例、色彩を見てどういう反応するか。
子供の頃の思い出、又は夕日の時間帯に嫌な体験をしたというのがこびりついている人で、赤を見ると吐きそうになる。

これは、感情と身体の偏った癒着があるという事。
そうすると判断が偏る、歪む。

なので、感情と感覚の癒着を一度切り離す。
やり方は色々ある。

色を見るというのは「感覚」
そこに固有の感情は結びつくが、1つだけの感情にならないことが多い

・<思考と感情が癒着している人>
感情が思考を乗っ取る。 
そしてその感情をあたかも思考であるようにふるまう。
こういう現象は凄く多い。

背後に感覚と感情が癒着していると、
子供の頃やそういう時に体験の感覚が感情と結びついた特有のある反応となり、三分節が無茶苦茶になる。

・グルジエフやゴールデンドーンでは、
これだと成長しない、それ以上の発達をしないという物を補正するために一度解体する。

・グルジエフのプリオーレの学校は解体工場。
解体されるというのは、例えばおもちゃがバラバラになっているようなもの。
 そういう時に見学に来た人は思いっきり引いていく。何故かというと、自分も巻き込まれそうだから、それに対して「へー」っていう態度が取れない。
そういう意味で、思いっきりできる限り拒絶反応を起こして、
これは違う、これは間違ってる、という風に考えて去っていくのではないか。

3文節の解体現場を見ると目も当てられない。かなり異常な感じになってるという風に考えてもいい。結構衝撃的かもしれない。

これは、それぞれの学校で色々なやり方が色々あると思う。
解体再構築とか解体再構築という事そのものは、基本中の基本として多分どこでもやっていく。

例えば、社会的常識や、いわゆる現実世界と呼んでいる所で生きている人の場合は、
かなりの部分で物質的基盤をベースにする、あるいはエビデンスにするという形で構築されている。

ヨガのチャクラもそうで物質的。
基盤と言ったら一番下のムラダーラチャクラ。腰。
そこが建物と同じで、地面の上に7階建ての塔が立っている。

物質基盤をベースにして成り立っているというのが世間的な所での現実世界。
例えば、妄想などが強い人というのを考えた時に、これは妄想だと証明する事のためには、はっきり物質的かどうかというのを判断するのでは。

<ずっと物質的基盤に依存しすぎていると何がまずいか> 
人間は死んだら、この物質的基盤で肉体がなくなる。
そうすると、物質的な基盤をベースにした人というのは存在が維持できない。これに依存しているから。
依存してる物、この体がなくなれば当然その人はなくなる。
つまり、世間的な常識などで構築されてきた存在というのは、それ以上の発達をしない。これは死後通用しないという事。
 
<死後その人はなぜないのですか>というと、
物質を基盤にしているので、物質に肉体がなくなってしまえば、その人はそこでおしまいですという事になる。
それ以上の発達、自己超越欲求というのは、
死後も自分が安定して存在しているというのも一つだけれど、それだけが目的ではない。
「死後も相変わらず自分がいますよ。何か違いがあるんですか。」
みたいなところが自己超越と考えてもいいと思う。

そういう事のためには、物質的な基盤に寄りかかって、そこで生きていくというのをちょっと補正しよう。正してみようなってくる。

ラーマ・マハリシは、
「悟りというのは、サハスラーラチャクラに行った事を示さない」と言っている。

普通、ヨガの本で割と書かれている事は、悟りはサハスララチャクラの頂点まで行くことなのだというのがまかり通っている。
ラーマ・マハリシは、それは違うと言っていて、一度上がってそこからアナハタチャクラの所まで降りて来て初めて悟りだと言っている。

アナハタチャクラは4番目。上から数えても下から数えてもいい。
これが重要かもしれない。上昇と下降という事だから。

例えば、カバラの世界、あるいはアジット・ムケルジーの話で言うと、
ムラダーラチャクラから上がって上がり切ると降りる。降りきるとまた上がる、上がり切るとまた降りるという風に、ぐるぐる循環する。

ラマナ・マハルシみたいにアナハタチャクラまで行くと、ちょうど中庸というか、ど真ん中。

・カバラでは循環する。上がってまた降りる。
ムラダーラ、カバラで言うとマルクト まで降りろという。
物質世界や下の世界を、上の精神の世界の合わせて改造していく。調整していく。いわゆるリフォームという事が起こる。

・上がったままの人は何が違うかというと、下を放置。そのまま何もしない。
そこがかなりおかしくても、おかしいままほおっておくという事になる。

ラマナ・マハルシはこのど真ん中にいる。
私はこれを「中空の存在」という言い方をする。
中空の存在というのは、ムラダーラチャクラを基盤にしていない。
だから、世間のその現実世界や常識的 世界とか物質的基盤をベースにしている発想をしていない。
ラマナ・マハルシの場合、この中空の存在性という所を基準にして、そこから何でもするという感じになっていく。
そこから見ると、物質的世界というのは相当いかれている
もうこれメチャメチャだなという風に映る。

中空の存在性、アジトムーケルジーやカバラの世界のように、上がったり降りたりして 3文節を常にリフォームするという発想でやっていく形は、発達が健全な形で非常に高度な所まで発達していくというのが特徴。 

それに対して、精神病(と言ってはいけないのだけれど)は
足りない物を補正するという形で作用している

ベティ アンドレアソンが宇宙人と接触したのは性的不満だからだ、というような補正効果は結構安定感がないし、不安を基盤にしている事が多いという事だと思う。

発達障害(という言葉もあまり言っちゃいけない感じだけれど)の場合、
不安が強いというのがあるらしい。
足りない所があると、物事を全体的に見れない。
全体的に見れないという事は判断が出来ない。
全体を見るとなんとなく判断ができる。欠けたところがあると、その不足がコンプレックスになって自分で判断しようと思った時に、どういう判断自信がない。

自信がなくて判断が出来ないという時には
不安感があって、観念に取りつかれていってしまう、過剰に何かに没入してしまう
というような感じになってくる。

・<終末論的宗教、終末論を含む宗教>
こういう時、結構深刻な宗教、例えば日月神示などに引き寄せられやすい。
これは、マズローの言う、自己超越欲求や、自己超越欲求は言い方を変えると宗教的欲求という感じでもある。
というのも宗教性というのは絶対性、絶対意識を求める傾向というのがあるから

こういう発達障害というのは、
欠けた物がある物を補おうとして、足りない物があるために自分の判断が正しいと全然自信が持てないので、不安が強くなって何かに依存するという事になる。それでどこかの宗教に行ったりする。          
 

・テレビや政界で急速に話題を出さなくなった宗教がある。
その宗教にしても、色々な問題が出ても、信者は全然気にしていない。

そういう時は、普通は皆それを見て、なぜまだ信者やってるの。というのが出ると思う。
でも、自分にとってかけたものを補ってくれるという要素がある。
だから、寄りかかっていく不安が強くて判断が出来ない人は、そこに寄りかかる事で安心するという事が出てくるのではないか。

これは基本的に、バランスが悪いという風に言ってもいい。

・発達障害が何かが欠けているという場合、例えば、これをチャクラという風に考えた時
チャクラのどこかが非常に未発達であるという風に考えてもいいかもしれない。そういう時に、その部分を満たしてくれそうな人、あるいは団体にしがみつく感じになる

・ラマナ・マハルシの場合、7つのチャクラを全部発達させた上で一番上に行くのではなく、アナハタの中空、ど真ん中に下りて来て、地面にも支えられていない。
かといって、上空にも支えられていない。
中空にいる。中空の存在性というところに自分の軸を置いている。
「何を根拠にそういうんですか?」という時に、根拠として物質的な物を引き合いにしてこない。それを証明してこない。

これこれこういうデータがあるとか、何を根拠にそういっているんですか?といった時に、本を書いている人だと3人ぐらい引き合いにしてくる。
中空の存在性としてのアナハタはそういう事はしない。
上空の物にも、寄りかかりすぎない。地面の物質的な所にも寄りかかりすぎないというところで判断していく。
一見安定感がないように見えるが、実は抜群の安定感がある。これほど安定性があるものはないという風になってくる。

中空の存在性のもっと低次なレベルにおいて参考になるものは水瓶座の悟性魂。 
物質的な物に依存していない。
体の周りの空気、その部分で判断する。
 でもこれは何処の場所としていないのでアナハタで判断するというのとはちょっと違う。アナハタかもしれないしスワジスタナなのかもしれないし、それは分からない。
とりあえず悟性魂というのは物質的な根拠をベースにして考えていない。

悟性魂訓練というのをやってもいいかもしれない。

究極の発達形態としてはアナハタに拠点を置いた中空の存在性が出てくると思う。

**    **

・ロマン派の時代が崩壊して音階が崩れていった、シェーンベルクなどの12音の時代がやってきた時に音楽の秩序が壊れていった。
 音楽の秩序が壊れる=情感と感情の秩序が壊れるという意味でもある。
音楽に限らない。

・こういう時代の時に、バルトークは上昇5度を弾道にしたと
(現代音楽を語る (1970年) 岩波新書) 
小倉朗著 の本に書いてあった。それが頼りだった

・バルトークは混迷の時代に道を照らす物として上昇5度を頼りにしていた。
もう楽しいかどうかだけで判断しているという感じになってくる。

・上昇5度。
ピタゴラス音階でモノコードで3分の2の部分をおさえるとソの音が出る。
ソの音の感情というのがあって、それは楽しいかどうか という話になってくる。
常にハッピーか!?、常にのってるか?

・私が毎日喋ったり原稿を書いているのも、基本的な姿勢としては面白いかどうかだけで判断している所がある。
楽しくなれるという事は未知の可能性。未知の可能性をそこに感じれるかという事。
既に知っている事はあまり楽しくない。よく知っている事を喋るのはあんまり楽しくない。段々普通になってやる気を失う。

驚きとか面白さというのがあって、それがあればどこに転んでもOKだよという発想をしていて、それを基準に物を書いていきます。

・昔、ノートだけが光っていてその周辺は真っ暗闇、だから新しい事を探りながら書いていくという事だけでひかりが出る、そうすると、どこかから声で、「あまりにも危なすぎなくないか」という声が聞こえた。
それが、未知の可能性、上昇5度、楽しいかどうか、未知の可能性を感じるかどうか

・バルトークの音楽は聞くと未知の可能性が結構感じられる。

未知の可能性は結局、よく知らないんだけどもなんかここに面白さがありますって いうことでいわゆる神秘感。

・バルトークから感じられる神秘感と、いわゆる神秘主義音楽。
神秘主義音楽って私から聞く、私から見ると全然神秘的でも何でもない。
ちょっと何なのっていう風な感じになるんですが
 バルトークはやっぱり植物がだんだんだんだん育っていくような途上の、だんだん膨らんでいく感じっていうのが思い浮かぶ、そういう神秘感があって、それは 結局今までなかったものが 湧いて出るみたいな感じですよね。

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・<精神病と精神世界の違いはどうなんですか>といった時に、
発達障害的な人は不安が強くて判断が出来ない。
判断が出来ないという事は、
これは楽しいね、未知の可能性がここにあるね。これで行ってみよう。
という感じで考えている時に対して、欠けたものがあると不安になる。
自分が間違ったことを言ってるかもしれないっていう風に思うんじゃないか、判断できないとなってくると思うんです。
そうすると多分どこかの宗教団体などに 寄りかかったりしてますから
そこから見て、やっぱりちょっとこれ おかしい、とかって言ったら、引っ込めるんじゃないのかなと思うんです。

・<松村先生の例>
私が物を書く時に、書いていて発見があるか とか、楽しければなんでも書くよ。みたいなところがあって、どこに転んでもいいですよ。という風な感じが私の基本的な姿勢としてあるんじゃないのかなと思うんですけれども。

私としては 自分から見て、いやこれ面白いなと思った時は、それが他のところからいかに外れているように見えたとしても自信を持ってそれを 押し出していくっていう風なことをやります。

なぜならばこのノートだけが光っているって言うとこその動機っていうか 想像力の出元が恒星意識だから。


*恒星意識の中にはブディ=直覚
ブディ=直覚から発生しているのがアハンカラで、霊我、純粋自我という事になる。
ここから始まるのが純粋思考。

・一連の恒星意識の創造力は、何かにエビデンスを求めていない。
そこからノートだけが光っている行為をやっているという事になってくるので、こういうやり方をすると地上的な物に基づくこの世の中でいろいろ歴史の中で、これが正しいとか、いろいろな判断データはあてにしないようになってきて、
なおかつ恒星意識が出元という事は、それより下のものに対しては不死である・。その 影響を受けない。振り回されない。

発達障害的な物として判断ができない 何か足りないことがあって、自分が言ったって全部これ間違ってんじゃないのかと、いう風に思う不安感というのがなくて、
いや 面白いねっていう。そういうものだけで進んでいくというのを、自信を持って力強くやっていくっていう風になってきます。

・私としてはこのバルトーク的姿勢っていうのはやっぱり結構重要。

こういう面白さっていうのは当然、恒星、マクロコスモスよりも下のレベルに振り回されることはないので、どんな出来事が起きても そこに損なわれない、そこに崩されないという 特徴が出てくる。

・例えばYouTubeのコメントに 異様なコメントがある。
「なんか精神病と精神世界の違いがもうどこにあるか さっぱりわかんない。
松村先生は、昔からこういう精神病みたいな人を平気な顔して扱ってる。それが不思議でしょうがない」

私 からすると。なんかかなりおかしなことが書いてあっても、あんまり大げさに見ていなくて、なんて書いてある、だけなんですよ。

 それに対して、評価基準としては 正しいかどうかで私はあんまり判断してないところがあって、要するに面白いかどうかっていうことですよ。
いかれた発言が、笑えるもの、面白い、なんかちょっと新しい可能性があるなって
いう。
 ぐちゃぐちゃになってても、そのぐちゃぐちゃの中にちょっと一瞬、 未知の可能性があるなっていう場合があるんですよ。
そういう場合は面白い可能性がある。でもまとまりめちゃめちゃだねっていう。」
でもちょっと書き分けると、あれ、なんかあるな。っていう風に考えることがあって、
そういう場合は、やっぱりちょっと取り上げてもいいんじゃないのかっていう風に思います

 ただ単にそうでなくて 補正効果として、単なる不安とか判断ができない状態でおかしくなってるっていう場合の発言っていうのは、やっぱり楽しくないんですよ。
なんか読んでてあんまり気分が良くないっていうか、そこに面白さを感じないイコール退屈。その瞬間だけ ハイにならないみたいな感じでもあるっていうことですよね。

***

やっぱり出来のいい音楽はこの未知の可能性や神秘感があるわけです。
結構すごいです

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