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the Hungry Tideとベンガルトラ ~「史上最恐の人喰い虎」より~

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笑い事じゃないんだよ。二十一世紀のこのご時世に虎に襲われるなんて、そりゃお前には冗談に思えるだろうけどね、ここじゃ毎週何度もおこるありきたりのことなのよ。…私ね、ずっと前から、耳に入ってきた虎の被害の記録をつけてきたんだよ。見てごらん、毎年、虎に食い殺される人が百人以上いるのは間違いないわ。しかも、これはシュンドルボンのインド側だけの話だからね。バングラデシュ側も合計したら、きっと二倍になるだろう。ということは、合計すれば、シュンドルボンでは少なく見積もっても一日おきに人間が虎に殺されているわけ。
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軽い気持ちでシュンドルボンのマングローブ・ジャングルに踏み込もうとするカナイに、その地に長年暮らす伯母のニリマは、こう注意を促します。それでもジャングルに飛び込んでいったカナイがどんな目に遭うのか、そして強大な力を持つ虎が作品中でどれだけ活躍するかは本編を楽しみにお待ちいただくとして、物語の舞台となるベンガル・シュンドルボンは、まさにロイヤル・ベンガル・タイガーの本拠地でもあり、今なお野生の虎が暮らしている土地でもあります。
 
さて、インドの虎というのは、いったいどういう動物で、人間たちとどういう関係を持っているのか。しばらく前に日本語訳が出た、デイン・ハッケルブリッジ『史上最恐の人喰い虎 436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター』(青土社, 2019年)から、すこしベンガルトラの姿を覗いてみましょう(もっともこちらの虎の住処はインド・ネパール国境地帯で、『飢えた潮』の舞台となるシュンドルボンの虎とは少し振舞いが異なるようです)。

史上最恐の人喰い虎 ―436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター― | デイン・ハッケルブリッジ, 松田和也 |本 | 通販 | Amazon
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虎が如何に効果的に、迅速に殺すかについては、虎が生まれ持っている重要な道具を思い浮かべるだけで良い。既に述べたように、虎は四インチに達する四本の犬歯を持っている。さらに前足にはそれに匹敵する長さの、計一〇本の爪。これはつまり、フルスピードによる襲撃の最初の数ミリ秒で、人体はスペインの闘牛の突進に匹敵するインパクトを受けて骨が粉砕されるのみならず、総計一四本の短剣に同時に突き刺されるということだ―うち四本は通常、後頭部もしくはうなじに(49頁)。
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人肉の味を憶えた虎が、この新たな獲物を反復的に求めるようになるということだ。こうなると襲撃はもはや森の中の偶然の遭遇ではなくなり、虎は意図的に村人を付け狙い、場合によっては家の中にいる人をも襲うまでになる。インドとネパールでは人喰いの豹は犠牲者を家から引きずり出すことでしられているが、虎もまた同じことをする。…水や川をものともせずに舟上の人をさらったベンガルトラの話もある。異常に攻撃的な虎で知られる前述のスンダルバンズ[シュンドルボン]では、虎は水中を泳いで舟上の人を攫うことが知られている。… 実際、虎は通常の家猫と違って水を怖れない。そして時には水を利用した攻撃戦略まで立てる。(54-56頁)
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本書は、19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけて、故郷の平原地帯を離れて人の多い山岳地帯に進出し、数えきれないほどの犠牲者を出した「チャンパーワットの人喰い虎」と、それを退治した伝説的なハンター、ジム・コーベットのたたかいを軸とするノンフィクションですが、作中、ジム・コーベットの師匠に当たるインドのベテラン猟師クンワル・シンが、ジムにこう教えるシーンがあります。
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ジャングルでは、虎をその名で呼ぶな。もし呼べば、虎は必ず出る。(168頁)
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このタブーは、シュンドルボンを舞台とする『飢えた潮』の作品世界でも同様であり、シュンドルボンの住民は決して、虎を表すbāghという単語を口にしません。
 
さて、一般的に、いかに獰猛な虎でも、普通は人間を襲うことはないようで、虎が人間を襲うのは、
①何らかの障害を負って、通常の獲物を狩る能力を喪失した場合
②獲物となる動物が棲息地域から姿を消した場合
③本来の棲息地から何らかの理由で(縄張り争いに負ける、など)追い出された場合
など、要は窮地に追い込まれたケースに限られるのだそうですが、シュンドルボンの虎は例外で、若く健康な虎が普通に人を襲うのだそうです。
 
さて、『史上最恐の人喰い虎 436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター』は、悪逆非道な残酷な虎を勇敢なジム・コーベットが倒して一件落着、というシンプルな話ではなく、それどころか、最終的にジム・コーベットは晩年を野生の虎の保護に費やすことになります(彼がタイガー・ハンターとして活躍していた時代、当時の政府にとって、虎はあくまで徹底排除すべき「害獣」で、保護してやる必要があるという考えは異端でした)。その功績をたたえて、彼が活躍したインド北部のウッタラカンド州に設けられた国立公園はいま、ジム・コーベット国立公園と呼ばれています。
 
さて、私は2019年の秋、虎やカワイルカの姿を一目見たいものと思い、シュンドルボンを訪れ、観光船でかなりの時間迷宮のような水路をぐるぐる巡ったのですが、残念ながら、どちらもまったく見ることはかないませんでした。やはり、シュンドルボンの虎は、「幽霊のような種族で、足跡、音、臭いをとおしてのみ存在を知るものであって、姿を人前に晒すことなどない」(『飢えた潮』)のでしょう。
姿を一向に現さない虎は、しかし、現地の人々の精神世界においても大きな地位を占めていて、そのあたりも『飢えた潮』ではいきいきと描き出されています。ひょっとしたら、『飢えた潮』こそ、文学史上、はじめて虎を、独自の存在意義と「声」を持つ主要登場人物として描きだした、世界初の「虎文学」といってもいいのかもしれません。ということで、虎が活躍する『飢えた潮』の出版、どうぞお楽しみにお待ちください。

参考書籍
デイン・ハッケルブリッジ『史上最恐の人喰い虎 436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター』(松田和也訳、青土社、2019年)


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