東方酔蝶華38話の射命丸文について【コンプエース4月号 本誌ネタバレ有り】

前書き

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東方酔蝶華38話は、大変衝撃的な内容でした。
コンプエース3月号に前編となる37話が掲載された時点で、本誌勢には衝撃が走っていました。天弓千亦が登場したのですから当然です。
そして前編の内容を踏まえ、後編には虹龍洞キャラが新しく登場するのではと、一部ではまことしやかに囁かれていました。
そして実際に虹龍洞キャラが登場しました。まさかの飯綱丸龍が。
しかし本誌勢――の一部に衝撃が走った理由は、何も単に飯綱丸が登場したからではありませんでした。
前編の終わり方から、文が今回のエピソードに深く関わって来ることは明白でした。しかし37話を読んだ時点では、また文ちゃんコミックかという程度の感想であり、いつものように大きな進展はないものと思われていました。少なくとも、自分はそう思っていました。
ところが、予想は大きく裏切られることになります。まさかあんなことになるとは……。

何がそこまで衝撃的なのか。

東方Projectに馴染んだ人ならわかると思うのですが、世の中で良く見られる作品展開と異なり、東方という作品ではキャラクターが成長することで話を展開することは稀です。
勿論、キャラクターが一切成長しないという意味ではありません。
むしろ登場したてのキャラクターは、一連の文脈を展開し、ある程度の成長を見せてからひとまずの描写を終えることも多いと言えます。
十六夜咲夜が紅魔郷~永夜抄の時期はトゲトゲしていたのに、花映塚で映姫の説教を通して人間性が軟化するようになったり。
博麗霊夢が昔は設定テキストに「誰に対しても仲間として見ない」「常に一人」「人間にも妖怪にもあまり興味はない」と書かれていたのに、三月精第3弾までにおける三妖精との交友の結果、輝針城のテキストからはそれらの設定が書かれなくなったように。
そのキャラクターの持っている文脈が、ある程度の短いスパンで語られることは多いと言っていいくらいです。
ここでいう「キャラクターが成長することで話を展開することは稀」というのは、例えば週刊連載少年漫画のような「長期的に登場していたキャラクターが物語中で成長した結果、その文脈を通してストーリーが展開される」ことを指します。
東方Projectは週刊連載じゃないんだから当たり前といえば当たり前の話なのですが、それだけに既存キャラクターの精神性に大きな変化が加わることへの衝撃が大きいのです。
話が遠回りになりましたが、酔蝶華38話の射命丸文はまさにこのパターンに当てはまります。射命丸文というキャラクターの根幹を震わすようなことが起きるとは、前編の時点ではまったく思っていなかったのです。

酔蝶華38話で射命丸文に起こったこと、またはその解釈。

ここからは38話を読んでいる前提で話を進めます。
大笑いする飯綱丸龍と、苦笑する天弓千亦の様子を、愕然とした様子で観測する射命丸文。
この表情は、一体何が原因なのでしょうか。文が望んでいた真実ではなかった……というだけでは、少しばかり説明が付かないように思えます。

ここでポイントになるのは、射命丸文はあくまでも真実を追求することに余念がないキャラクターだということです。
巫女さんを誘導して面白い記事を創ったり、鯢呑亭のことを隠して妖怪の飲み場を守ったりと、自分に都合の良い報道を行うことはあります。しかし決して、悪意を持った誘導で世の中を変えようとするキャラクターではありません。
酔蝶華17話において聖に濡れ衣を着せてしまったときも、文は悪意を持って命蓮寺を貶めようとしたのではありません。あくまで勘違いや取り違いの結果、あのような結果になったに過ぎません。
しかし同17話のとおり、もし自分の記事で誤報が出回り、不幸を誘発してしまったら……? という思慮が欠けていたのも事実です。(勿論、17話は天狗と仏教の確執を描くエピソードという面も大きいのでしょうが)
そこを踏まえて38話を見ると、どうでしょうか。飯綱丸は私情を叶えるために策を弄し、嘘偽りを広めながらも誰も不幸にならない結果を導いています。(よくある、無知な者を騙しているが故に“誰も不幸になっていない”のではなく、本当に皆が得をしているのがポイントです)
これは真実を追求しようとして不幸を導いてしまった文との対比とも言えるでしょう。
文はその場で「赤雪事件の真相を暴いても誰も得をしない」と納得したに違いありません。しかし単につまらないネタ、しょうもない真相だったというだけなら、あそこまで愕然としていなかったでしょう。
真実を追求するというアイデンティティが、時として不幸を呼び込むことに繋がることに気が付いたが故の愕然さだったのではないでしょうか。
「天狗の報道機関は悪戯に真実を暴いて話題を集める機関ではない」とは飯綱丸の言です。まさに「悪戯に真実を暴こうとしていた」ことに気が付いた文が、大きな衝撃を受けるのは当然でしょう。

次に重要なのが、飯綱丸は大天狗という立場であるにもかかわらず、私情で策を弄し、それを成功させているという点です。
射命丸文という存在は、天狗の組織というものに理解を示していることが度々描写されます。わかりやすいのは文果真報における袋とじでしょう。「仕方ないんですが」「必要とはいえ」など、不満を言いつつも理解がある描写が重ねられています。
そんな不満と理解の中、文は組織と私情のバランスを「上手く取っている」キャラクターだと私は捉えています。
ガチガチに規則を守ろうとして自由を失っているわけでもなく、かといって自由気ままにやり過ぎて上層の機嫌を損ねるでもなく、「上手いことやっている」のが射命丸文という捉え方です。
そこで飯綱丸を見てみると、気ままに私情を叶えようとして完全な形でそれを叶えていることに気が付きます。
言ってしまえば「私情と組織を天秤にかけ、場合によってはどちらかをないがしろにしている射命丸文」の上位互換の動きをしているわけです。
勿論、大天狗とイチ天狗の立場の差はあるでしょう。しかし例えば、今回の赤雪事件を文が起こしていたとしたらどうでしょうか。
(本人がそれを望むかは別として)飯綱丸からは評価され、人間達にも益があり、ついでに巫女さんを記事にできるかもしれないと良いことづくめです。今回の事件に、天狗の階位は関係が無いことは明らかです。
このような視点が無いまま「上層部の闇を暴いて真実を照らし出す」気概で動いていた文が、事件の真相を知ったときの衝撃はとても大きなものだったのではないでしょうか。あの愕然とした顔の一端は、これが理由ではないかと思います。

もっとも最悪なこと。

しかし今回のエピソードで最悪なのは、上記で述べた点ではないと考えています。
今回文に取って最悪だったのは、文に飯綱丸は何も関与していないであろうという点です。
漫画中には、飯綱丸が文の存在・動きを把握していたという描写はないように見受けられます。(もしそのような意図があるストーリーであるなら、視線を僅かに向けるなどの示唆が入るのではないかと思います)
少なくとも、38話の時点では飯綱丸が文を意識していたという確証は無いと言っていいでしょう。(勿論、そうではない可能性は多分にあると思います)
「天狗に身内を売るような馬鹿な奴はいない」と聞いたときの、文の心中たるや察するに余りあります。まさに自分が「身内を売るような馬鹿」なのですから。
これが飯綱丸が意図した(つまりは、文にわざと自分の声を聴かせていたというような)策であればどんなに良かったでしょう。悔しさはあるでしょうが、既存の描写から導かれる射命丸文のキャラクターであれば、反骨心の一つでも湧き上がったのではないでしょうか。
しかし実際には、「大笑いする飯綱丸と、苦笑する千亦」二名だけのやり取りでその会話は終わってしまいます。文は蚊帳の外で、あまつさえ「それが判らぬ愚か者などいない」とまで聴いてしまいます。
今まで自分の根幹となっていた行動原理が否定され、それが完全な自爆であったとすぐに理解したであろう文の感情は、果たして如何なるものだったのでしょうか。
しかも最後には、自らの手で「あれはやはり自然現象だった」と嘘の記事を書く羽目になりました。絶望の中、それでも書いた記事を放置しない文のプライドが垣間見えます。文自身の姿が描写されていないのが、また想像をかきたてます。

終わりに

先に上げた酔蝶華17話ですが、はじめに読んだとき、違和感を覚えたものです。あまりにも文が露悪的に描かれていたからです。
勿論文は一から十まで綺麗に描かれているキャラクターではないため、最終的には「まあ偶にはこういう描かれ方もするかな」という程度に捉えていました。締められ方がギャグ風だったのも、納得を得る一端でした。
とはいえ、やはり違和感があったのも事実です。細かく言えば、描写の意図を測り損ねていました。
しかし38話を読んだ現在では、17話がとても腑に落ちています。
あれは真実を追求して悪い結果が生まれる/嘘を広めて皆が良い結果に落ち着く対比のフックとなる描写だったのではないでしょうか。ストーリーに直接繋がりはないものの、そう思えて仕方がありません。

射命丸文というキャラクターは、従来でさえ様々な面を見せる存在でした。
38話を踏まえて、これからの文がどんな風に描かれるか、大変楽しみです。

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