【地歴日記 #15】 田沼意次 〜田沼の先見の明〜
どうも、先日浜松城について書いた部員です。
前回書いた記事をご覧になりたい方は下記のURLからご覧ください。
皆さんは田沼意次に対してどのようなイメージを持っていますか。
僕が中学受験で使っていた参考書(予習シリーズ6年上)によると、田沼は、大商人の力を利用して、幕府の財政を立て直そうとしました。同業者の組合である株仲間を公認する一方で税を取ったり、長崎での貿易を拡大したりしました。
しかし、幕府と大商人だけに利益をもたらす政策であるとして、批判されました。
という様な人物だというみたいです。
他にも地歴研の部員にformsでアンケートをとった結果は、経済に関する事を評価する人が多いが、人事などを批判する人もいました。このように評価の分かれる田沼意次ですが、今回は肯定的に捉えて進めていきます。
田沼の行った政治は当時の重農主義(農業中心の経済)とは相容れない重商主義(商業を中心とした経済)でした。当時は武士の給料が米で支払われる時代だったので、米を金に変える手間賃がばかになりませんでした。
田沼はもともと小さな旗本で他の為政者のようにボンボンではなかったので、そのため、金の大切さや手間賃の大きさを知っていたので、商業を中心にして下級武士の生活を応援しようとしていたのかも知れません。
田沼はいわゆる公共事業を増やすことで景気対策をしようとしていたではないでしょうか。出島での貿易も結局のところ商人が利益を得るわけで、商人が利益を得れば、経済が回るという形で経済を回そうとしました。
しかし、そんなにすぐに経済が回るわけではなく、賄賂も田沼に集中してしまって、本来ならば賄賂を大量に貰える地位の者が田沼を妬み、失脚させたのではないでしょうか。
また、田沼を失脚させた松平定信ですが、彼は言わずと知れた徳川吉宗の孫ですが、田沼は元々徳川吉宗に足軽として雇われた者の子に過ぎませんでした。そこらへんの事情があって田沼が幕府を仕切っている事を嫌がり、政治の表舞台から引き摺り下ろしたのではないでしょうか。
また、田沼の政治の柱である下級武士に対して優しい政治が自らの既得権益をなくすのではないかと思ったボンボンである他の為政者達が引きずり下ろそうとしたのではないでしょうか。
つまり、僕の考える田沼失脚の原因は革新的な改革が受け入れられなかったことや、シンデレラボーイである田沼に対する嫉妬があるのではないでしょうか。これは邪推にすぎないが、検証してみる価値はあるのではないでしょうか。