理解できない感情
今回は長い自分語りが入るので、そういうのがお嫌いな方はスルーをお願いします。
私には父親の記憶がありません。
両親は私が一歳のときに別居。和解できずに二歳で離婚しました。
私は母に引き取られ、母と祖母と共に地方の片田舎で育ちました。
母は世間的には立派な人だったのでしょう。
母子助成や生活保護も受けず、朝から晩まで働き、私を育てました。
しかし、”人の親”としては些か未熟だったと、親不孝な娘は思ってしまいます。
気分で当たり散らす。
私の話をまず否定から入る。
父の悪かった部分を羅列した口で、私が父にそっくりだという。
祖母が酔って私を夜中に叩き起こすのも、私が祖母にストレスを与えているせい。
二時間三時間、正座で説教されることも珍しくなく、泣けば「泣いたら許されると思っているのか」と責め、黙って聞いていたら「可愛げがない」と誹られる。
年頃になり、鏡を気にしたり、制服以外のスカートを履けば「一丁前に色気づいて」と嘲笑されました。
それでも私は殺されることなく生きているのですから、感謝すべきなのでしょう。
今年の二月。朗読劇「エルガレオン」を観に行きました。
三公演のマルチエンディング。
共通するのは”家族愛”です。
私は無償の愛や、家族の愛情というものが信じられません。
正確に言えば、実感ができません。
「エルガレオン」の物語の妙や演出の凄さは理解できても、”家族を想う心”が私にはまったく響かないのです。
5/4現在、この「エルガレオン」はDMMで最速配信をされています。
配信されているのは、<Familia>。
そのサブタイトルの通り、最も家族愛の要素が強いです。
「エルガレオン」には二人の父親が登場します。
娘を想っているのに、娘には冷たくされている黒髭。
娘を看取ることもできずに喪ったネルソン。
三公演、それぞれにその関わりの描かれ方が違うのですが、私がとても心惹かれたのは二公演目。<Memoria>です。
黒髭とネルソン。立場も性格もまるで違うのに、ただの父親としての姿がクロスオーバーしていく<Memoria>のクライマックスシーンは、私にとっては<Familia>より強く、父の、親の愛情を見せられたものに思えました。
私が父親の名前を知ったのは数年前。一通のハガキによってでした。
それは父から…などではなく、とある自治体から。
戸籍上の父親が生活保護を受けている。娘であるあなたが補助をできませんか。そんな内容でした。
両親の離婚の原因が父親の借金だったことは知っていましたので、驚きはありませんでした。
無感情。
自分はなんという残酷な人間なのかと、私は物語のように、ただ小さく笑いました。
そして母親に名前を確認したあと、そのハガキは捨てました。
ネルソンを演じたのは、私が今一番大好きな声優さんである、諏訪部順一さんです。
前述の<Memoria>のクライマックスシーン。
娘への懺悔と愛情を吐露するその演技に、私の頬をひとすじだけ涙がつたいました。
実の父親への想いはまったくありません。
母親のことを思い出しもしませんでした。
家族愛というものが理解できないのです。
それでも、諏訪部さんの、ネルソンの声が、想いが、私の何かしらの琴線に触れた。そのことで胸が締め付けられるようでした。
そうなれたのは、ネルソンを演じたのが諏訪部さんだったから。あの声。あの演技力あってこそで、たぶん他の誰が演じてもだめだったと確信しています。
ひとときでも父親というものに触れられた気がした。
その感謝を御本人に伝えたいですが、ただの自分語りになってしまうので、お手紙にも書けません。
それでも、ここ数日。何度も<Familia>を観ては<Memoria>の台本を読み返し、記憶を呼び覚ましているうちに、何かにこの気持ちを書きとめておきたくて、こうして自己満足で続けているこの場所を選びました。
これからも親子愛、家族愛を私が心から理解できる、実感できるときはこないでしょう。
ただ時折何かを求めて、八月に手に入るはずの「エルガレオン」パッケージ版で<Memoria>を何度も観ると思います。