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特に意味のない文章005

はーるばるきたぞ、五回目。
五回目にきたぞ、いいな、折り返し地点だ。なんの折り返しなのかはさっぱり分からないが、折り返している。多分山折り。いや、つまみ折りかもしれん。鶴が出来そうだ。いや、つまみ折りしたっけ、鶴で、しなかった気がする。
まあ、いいか。

今回の写真はネモフィラを選んだ。多分ネモフィラだとおもう。この花は青色がキレイな花だ。微妙に時期尚早(4~5月の花)なので、季節の先取り写真って感じがしてオシャレだと思う。季節の先取りネモフィラ写真添え怪文書 ~はるかぜとともに~

ネモフィラじゃなかったらどうしよう。
腕立て20回3セットぐらいでもするか。

そして、今日も意味が無い文章が良い感じに作られている気がする。今日は何の話にしようか、ネモフィラの写真を選んだ訳だし、そうだな、いい加減写真に合った題材を選ぶべきだ。うむ、今日の題材はそうだなあ、うーん、人格について筆者の勝手な考えを書いてみよう。

ネモフィラはどこかへ立ち去ってしまった ▼

──人格、人格ってなんだ。人格者とか、人格が悪いだとか、普段簡単に使っているが、人格ってなんだろうか。ここから先は筆者の本当に勝手な考え方であり、専門の人からすればなんだそれは、稚拙極まりないな、幼稚園児のお遊戯会か?と罵られかねないので、専門家の方はイエス初心者ノータッチの方針でお願いしたい。

人格、平たく言ってしまえば同一性と連続性がある、人の精神だ。同一性というのは、これが好きだとか、これは受け付けないだとか、そういった反応の一貫性だ。連続性は一昨日、昨日、今日、明日、明後日と記憶が続いていくことだ。このどちらかが足りない場合、それは人格として機能しなくなる。同一性が伴わないのであれば、会うたびに別の人に会っているのと変わらない。連続性が伴っていない場合、博士の愛した数学のように、個人の存在を留める事が難しい。

いまいちピンとこないな。そうだな。筆者の勝手なイメージだが、人格とはひとつのビー玉だと考えている。ビー玉は色んな色、形、装飾がある。例えば赤色のビー玉を覗いてみれば、景色は赤く彩られるだろう。しかし、色の恒常性(すべての色が赤系統の色だとしても、不思議と白や黒、黄色といった他の色が脳で補完され、理解できる錯視の現象)があるため、その景色が何を映しているか理解できる。この赤い景色がその人の人格、つまりその人の価値観を反映した景色なのだ。赤いビー玉の人格を持つ人には、きっと世界が赤く見えているのだろう。


人々はそのビー玉を持ち歩いて日々を生きている。時には落としたり、どこかにぶつけたりして、傷が付く日もあるだろう。そう、これが連続性だ。この傷はこのビー玉にしかない特徴なのだ。この傷が翌日にはきれいさっぱりなくなり、すぐにピカピカの球体に戻ってしまうと、新品のビー玉と違いが無い。連続性は必要なのだ。

では同一性はどういう状態なのか、そうだな、毎日ビー玉の色が変わるなら話が早いが、筆者の見解は少し違う。同一性が持てないビー玉とは、強烈な衝撃を受け、ビー玉が砕けた状態だと考えている。
複数の破片になってしまうと、覗いた景色は歪かつ、不規則な光の反射になってしまう。元は同じだったビー玉から違う景色がいくつも広がっていく。これでは安定した像なんてものは存在できない。同一性も必要なのだ。

すごい、ここまで珍しく真面目な話だ。

で、結局何が言いたいのかというと

実は何もない。
いつもどおりともいう。

なんとなく、たまには普段考えていることをちゃんと出しておこうと思った。

そういう考え方もあるんだなぁ、ぐらいでいい。

本当は一昨日ぐらいになんか宇宙の話とかを書き上げたかったが、日常があまりにも忙しく、同時にえげつない程大変だったので、書き上げるまでたどり着かなかった。すまないとおもっている。シューマイの上にのってるグリーンピースぐらいの重さで。

つまりエンドウ豆、ジ・エンドう豆ってね。

おしまい。

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