今日の気づき

Covid-19が生み出したことのひとつ。

大学でも、オンライン授業が活用されることになったこと。

けれども「オンライン」の持っている可能性については追求することなく、「やってる感」(受験生に向けての宣伝)だけを演出するために「オンライン」を使おう、って感じが、Covid-19感染蔓延状況に慣れてきた大学当局には感じられる。

で、末端泡沫教員としては、今年は対面授業だけにしてオンライン授業はすべて廃棄したのだけれど、学生さんからは、それぞれの事情でオンライン対応してくれないか、と要望がくる。

大学当局が自ら決めた狭い基準に合致する学生さんについては、大学当局が正式な要請として、教員に対して当該学生の授業受講に対する手当をするよう指示がだされる。教員はそれには応じなければ査定に響く(はず)。

が、大学当局がそれに該当せず、とした学生さんにもそれぞれの事情はある。
それが教員に直接来る。
当局は、それらについては応じられなければ応じなくて良い、という態度だが、現場の教員は違う。
求められてしまったら、なんとか答えなければ、と思う。

で、今季、ある授業を、週2クラス行っている。
一方は対面、一方はオンライン。

大学の授業はだいたい同内容のものを同一週に複数回やることは少ないのだけれど、今回、対面とオンラインという開講形態の異なる状況で同じ授業を2回やることになった。対面を先行させ、同内容をオンラインでも行う、というつもりだったのだけれど、実際にやってみると、思惑通りにはいかない。

対面授業の方では、その折々に飛び込んでくる受講生の反応にあわせて、即席のグループでのグループディスカッションなどを行うことになったりする。当然、予定よりも進度は遅れる。

一方のオンラインは、特殊な事情ということもあって受講生が少ない。その上に、相変わらず「帯域」やら「人権」への配慮やらがあって、「顔出し」すら要請できない。シナリオ通り進められてしまう分、畢竟、対面授業と進度がずれてくる。かえって先行してしまう。
先行したオンライン授業の学生への講義の最中に気づいた不備を、対面授業の授業までに修正してみたりもすることになる。

なんてことを思っていたのだけれど、でも、これって、中学校や高校の先生だったら、当たり前ほどに当たり前のことかー、と、突然思った。

どれだけ準備をして授業に臨んでも、最初の授業では不備を感じる。
そこを修正して次のクラスの授業に臨むのだけれど、そこには前のクラスとは違う生徒がいる。前のクラスの生徒への授業の反省に基づいて授業内容を見直しても、次のクラスの生徒にそれがふさわしいかどうかは分からない。
毎日毎日、授業が終わると、次のクラスの授業のために授業のシナリオを書き直し資料を作り直す。その繰り返し。半端な努力、半端な所要時間じゃない。

僕は(教育実習を除けば)中学でも高校でも教鞭をとったことなどない。でも、なんか、その感じを妙にリアルに感じてしまった。

少なくとも僕はまだまだ楽をしているなと、思う。大学教員の中には、世界を動かすような研究を行っている人も確かにいる。
でも、僕はそういう人間じゃない。もしかしたら大学教員の中で世界を動かすような研究を行っていないのは僕だけかもしれない。目の前の受講生のささやかな要望に答えるために精一杯なような大学教員は僕だけなのかもしれない、と思う。だから、給与査定を下げられても、仕方ないと思うけれど、中学校や高校の先生がやられていることの数分の一程度でも、自分もできれば良いなと思う。

大学は人材を作るところではなく、人を作るところ。でもそれをするには教員である自分自身が人でなければ。僕は自分を人材と見て自分を卑下していないか? 自分を人と見て尊重できるか? これって意外にも、難しいかだと、今日、ふと気づいた。


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