加齢は「ながら」も難しくさせるのかしら、でも加齢のせいじゃないのかな...

MacとiPhoneユーザーなので、Apple Musicを使っています。

LPを買って、洋版ならばライナーノーツと歌詞の翻訳に、日本語ユーザーのアーティストならば歌詞カードに、なけなしのお小遣いで買ったLPをかけながら、見入っていたのは、中学生の頃です。

でも、LPを買うような好きなアーティストを見つけるきっかけは、大体ラジオでした。なにかしながらかけていたラジオに、ふと惹きつけられる、そんなきっかけでそのアーティストさんのことが気になり始め、そうすると、そのアーティストさんの曲がかかる番組を探し始め、「エアチェック」し、そして(なけなしのお小遣いで)レコードを買う。

なにかしながらかけていたラジオで流れる、それが大切でした。

今、僕は相変わらずラジオも聞いていますが、音楽を聴く際の中心はApple Musicに変わっています。

でも、Apple Musicは「ラジオっぽさ」を大切にしているのだと思うのだけれど(他の類似のサービスを知らないので、「Apple Musicは」なのか「Apple Musicも」なのかは分かりませんが)、最近は、僕のほうが「ながら」ができなくなりました。

昔は、聴き流していても、訴求すべき曲は耳に入ってきていました。聞かなくてもいい曲は入ってきました。

最近は、それが、何故か難しく感じます。

聞いてしまう、結果的に好きにはならないアーティストさんの曲でも、

聴けない、好きなアーティストさんの曲なのに、「ながら」だと、歌詞が入ってこない…

聞くところによると、高齢になると、徐々に、高音が聞き取れなくなるそうです。確かに実感します。
加えて、実感としては、雑音と聞かなければならない音とが区別しにくくなります。いわゆるS/N比みたいなものでしょうか、それが悪くなります。

それは、物理的な「音」の話なのですが、でも、それだけじゃなくて、雑音の中から自分の心の琴線に触れる歌詞を聞き取る力も落ちているような気がします。

心が鈍感になっている、そんな気がします。

それなりにいろんなことを経験して、心の経験の振れ幅も分かるようになってしまっています。自分がどの程度のことには耐えられて、どの程度以上には耐えられないか、とか。

だからいつのまにか、心のフィルターみたいなものがかかってしまっているのかもしれません。

「こんなフィルター、いらなかったな」って、昔の僕は言っているのに、今の僕はそのフィルターを使っています。

その結果、好きなアーティストさんの新譜とかでも、歌詞を表示させながら聞いてしまいます。

耳が世界に開かれていない、「耳を世界に開いても、自分は自分だ」って風に自分のことを信頼できなくなっている、歳を重ねて一見選択眼は磨かれていそうだけれど、結局は自分の耳を壊さない程度のものしかえらばない、つまりは聴き馴染んだ「懐メロ」しか聞かない、だから、「ながら」で聞いている曲の歌詞に対する「選択的聴取」もできなくなっている…

そんな自分って、哀しいよね、ってちょっと思いました。

最近、好きなアーティストさんの新譜がApple Musicで公開されたのですが、そのアルバムを「聴くための時間」を確保しようとし、「だから今はその新譜は聴かない、後で聴こう」とした自分を振り返りつつ、この文章を書きました。

それって違うよね、って。
聴きたいものは、たとえ今がどんな状況であっても、今、聴くべきですよね、きっと。

いつのまに、そういうことができなくなったんだろう……不思議です。

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