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『聖なる伝統』と『確かな文献』に基づく、聖ドミニコのロザリオの新たな見解

A new look at St. Dominic's rosary based on "sacred tradition" and “source texts”

"Champions Of The Rosary"

アメリカの聖母マリアを崇敬するドナルド・H・キャロウェイ(Donald H. Calloway)の研究と考察は、比較的最近、発見された歴史的資料に言及しながら、教会生活における『聖なる伝統』の重要性を説いている。「聖母が聖ドミニコにロザリオを与えたという伝説は、資料によって証明されていない」という、イギリスのイエズス会士ハーバート・サーストン(Herbert Thurston;1856-1939)の見解については、少なくとも20世紀初頭から論争が続いており、キャロウェイの指摘は、特に重要である。サーストンは、英語の『カトリック百科事典(Catholic Encyclopedia;1907-14年)』の150項目ほどの著者である。

『ロザリオの伝説』について、出典根拠がないことの記述項目は、ポーランド語版のウィキペディア(Wikipedia)などではまだ見られるが、英語版では、キャロウェイの研究と考察に基づいて、すでに、この項目が変更されている。彼は、サーストンが使った『歴史批評的手法』だけに基づく記述に反論している。おそらく同じことが、ほかの多くのテーマ、たとえば前述の『カトリック百科事典』において、この極めて懐疑的でありながら、心霊主義の信奉者であるイギリスのイエズス会士が記述した、聖人たちの生涯にも適用されるべきだろう。

ドナルド・H・キャロウェイ神父(Donald H. Calloway, MIC;1972年生まれ)は、アメリカの著名なカトリック修養者であり作家だが、ロザリオをテーマに、特に多くの教皇、聖人、神学者、マリア出現の色々な光彩を放つ発言を通して、その起源について書き、それらすべてを教会の『聖なる伝統』であるとみなしている。2016年に出版された包括的な著作(436ページ)『Champions of the Rosary(チャンピオンズ・オブ・ザ・ロザリー)』において、彼は、たとえば、ポーランド版ウィキペディアで明らかになっている、(聖ドミニコの伝説はさておき)、ロザリオの起源はむしろ、約2世紀後に活躍した信徒神学者の福者アラン・ド・ラ・ロッシュ(Alan de la Roche;1428-75)と2人のカルトゥジオ会修道士に関連づけるべきだという論文に、異議を唱えている。2人の修道士は、カルカーのヘンリー(Henry of Kalkar;1328-1408)とプロイセンの福者ドミニク(Dominic of Prussia;1384-1460)である。後者はグダニスクで生まれ、1400年から05年にかけてクラクフ・アカデミーで学んだため、ポーランドと関係があった。クラクフではドミニコ会とも接触し、彼らからロザリオの祈りの普及を学んだ。

『Champions of the Rosary』の著者は、さらに、この祈りと人生を結びつけたポーランド人について多くの言及をしている。最もよく知られている聖ヨハネ・パウロ2世(St. John Paul II)、シスター・ファウスティナ(St. Faustina Kowalska)、マクシミリアノ・コルベ神父(St. Maximilian Kolbe)に加え、残念ながら東欧でしか知られていない、福者カロリナ・コズカ(Karolina Kózka;1898-1914)の殉教を記述し、『ロザリオの殉教者』として、ナチスの強制収容所で殺された福者司祭ヴワディスワフ・デムスキ(Władysław Demski;1884-1940)と福者司祭ユゼフ・コワルスキ(Józef Kowalski;1911-1942)に関しても言及している。また、カティンの虐殺の脚注には、「遺体発掘の際、殺された将校の多くが持っていたロザリオが発見された」という記述があるが、これは、のちにアルゼンチン、サンニコラスでの聖母出現(1983-90年)の啓示のひとつである『ロザリオは苦しむ者の避難場所』という言葉にも合致する。

アメリカのマリア崇敬者はその著書のなかで、比較的最近、発見された様々なドミニコ会の資料を引用し、ドミニコ会(説教者会/ Ordo Praedicatorum)の創設者である聖ドミニコ(St. Dominic;1170-1221)とロザリオの祈りを結びつけている。このような資料をめぐる問題は、サーストンの極端な懐疑主義に異議を唱えるものだが、イギリスのカトリック作家メイジー・ウォード(Mary Josephine 'Maisie' Ward Sheed;1889-1971)によって1945年にはすでに指摘されていた。彼女は、「これらの議論の否定的な側面は、特に黒死病(ペスト)が流行した荒廃の間に、多くの文書が失われた事実によるものだ。しかし、否定しがたい側面は、時間の経過にもかかわらず、新しい資料がどんどん発見されていることだ。その結果、私たちの祖先が 『何もしていない』と断言することはできなくなったが、逆に、あることが実際に起こったという確信が持てるようになった」と述べている。

また、別の作家で教会史家のジョンS・ジョンソン(John S. Johnson)は1954年、ユグノーによるカトリックの修道院や図書館の焼き討ちなどの宗教戦争を指摘し、「歴史評論家は、他に証拠がないため、聖ドミニコではなく、福者アランがロザリオの『父』だと結論づけた(中略)。しかし、後年ほかの多くの文書が発見され、その中にはアランより100年前に書かれた長詩『Rosarius(ロサリウス)』があり、『聖ドミニコのロザリオ』について語られている。この詩は、1213年にシモン・ド・モンフォール長老(Simon de Monfort the Elder)率いる十字軍がミュレでアルビジョワ派(カタリ派)と戦った際に、ドミニコ会の創立者が祈りながら参加したことを背景として書かれたものだ」と述べた。

興味深いことに、フランドルの画家ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck 1390-1441)が1434年に描いた『アルノルフィーニの肖像』のなかで、人物の後ろの壁にロザリオを描いており、これはアラン・ド・ラ・ロッシュの年代よりも早い起源を示していると思われる。

ロザリオの歴史について書いている何人かのドミニコ会の神学者、歴史家は、前述の詩『Rosarius(ロサリウス)』で言及されている、聖ドミニコが用いた『説教-祈り』の方法を指摘している。ここで最もよく知られているのは、ドミニコ会の著名な神学者レジナルド・ガリグー=ラグランジュ(Reginald Garigou-Lagrange ;1877-1964)のコメントであろう。「聖母は聖ドミニコに、異端者の誤りやその他すべての逆境に対する最も強力な武器が何であるかを啓示された。聖母に触発された聖ドミニコは、アルビジョワ派の人々が住む村から村へ行き、人々を集め、救いの神秘である受肉、贖罪、永遠の命を説き聞かせた。マリアが教えてくれたように、彼はこれらの様々な神秘を指摘し、短い黙想のあと、今日でもそうであるように、Ave Maria(アヴェマリア)を10回祈った。そして、説教者ができなかったことが、このAve Maria(アヴェマリア)という『甘美な祈り』を通して、聞く人の心に届いた。マリアが約束したように、これは最も効果的な説教の方法であることが証明された」とドミニコ会の神学者は書いている。

ロザリオを聖ドミニコに与えたのはマリアであるという事実に関する、重要な、いや、最も重要な論拠は、キャロウェイによれば、特にロザリオを聖母と聖ドミニコとに正確に結びつける教皇文書に表される、『聖なる伝統』である。ローマ教皇ウルバヌス4世(Urban IV; 1261-64)は、聖ドミニコの死の直後から、「ロザリオという霊的武器は、日々、キリスト教に新たな恩恵をもたらしている」と賞賛している。その後、歴代のローマ教皇によってロザリオ会が設立され、祝福されるようになった。たとえば、アレクサンドル6世(Alexander VI)は1495年、文書『Illius qui(イリウスクゥイ)』のなかで、ロザリオの起源に改めて言及し、「聖母マリアの功徳と偉大な説教者であった聖ドミニコの祈りのおかげで、この世は救われた」と記している。

『聖ドミニコのロザリオ』が教会にとって極めて重要であることを確認した歴代教皇の文書について、ここですべて書くことは困難である。たとえば、『ロザリオの教皇』と呼ばれたレオ13世(Leo XIII ; 1878-1903)は、11もの回勅をこの祈りのために捧げている。

1960年代から1970年代にかけては、教会の歴史の中でも特に激動の時代であり、マリア崇敬は衰退していった。しかし、聖ヨハネ・パウロ2世の教皇時代に、キャロウェイが、神の芸術家が何世紀にもわたって作りあげ、マリアが聖ドミニコに与えた『霊的戦いのための剣』と表現したロザリオが、教会生活に戻ってきた。この剣は、最も重要な新しい教会文書、すなわち、教会法、カテキズム、使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ(ROSARIUM VIRGINIS MARIAE)』のなかに見つけることができる。カトリック教会の『聖なる伝統』が何世紀にもわたって勧めてきたように、ロザリオは、信者の生活のなかに新たに登場した。

Fr. Paul Janocinski OP

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