なろうテンプレ批判について

僕はなろう作品をよく読みます。テンプレがあるのは間違いなく、また時期によって流行りがあります。追放などは根強く、よくランキングに上がってきます。そのうえで同じテンプレが並んでいる事も当たり前のように見受けられます。そしてそれが批判の的に上がることもわかっています。

テンプレを選ぶというのは効率を選ぶということ

長ったらしくだらだらと結論を伸ばしても仕方ないですので、先に僕の意見を言います。テンプレ化するのは見る人にとっても書く人にとってもある種の真理です。お互い効率を求めて行き着いた1つの選択肢であるということです。

よくテンプレは多様性がない。という批判を聞きます。僕はそれについてちょっと変だなとは思います。多様性とは人と違うことをすることではなく、好きなことを選択する自由だと思うからです。べつにテンプレを選んでも好きなことをする自由はなくなるわけではありません。もちろんやりづらくはなるでしょう。

テンプレは多様性を否定しているわけではありません。テンプレに従うことで長い更新や質の高い文章、そして毎日更新などをする手間を省いているに過ぎません。

そのかわり皆が同じようなスーツをつけて面接に挑むように、最適化されてしまうだけです。

面白いということは辛い

大切なことは面白さを求めるというのは多分大変で辛くて時に死にたくなるのではないかということです。いろんな作家がいると思いますが、ほんとのところみんな書きたいことだけ書いて売れたいはずです。でもそんな人は一握りで、書きたくないことを強いられています。説明しないと納得させられないからというこの部分もそうで、そういった読者の気持を手放さないことにストレスで参ってしまうくらい自分を追い詰めている作家もいることでしょう。

おまけにテンプレに従わないとその手間がより増える可能性はあります。目を引くタイトル出ないということは、その部分を他の何かで補うしかないからです。それはさらに自分を苦しくさせることでしょう。


そして、そういう苦しさをもってしてテンプレを批判する人もいます。

結局テンプレを選んでも選ばなくても面白さを求められる

僕は読む側なのでこういったことを言うのは大変失礼だと思います。しかしあえてここに言います。テンプレであってもなくても、面白くなければ見てくれないでしょう。

僕は最近書籍化を発表したテンプレタイトル出ない作品をひとつしっていて、その方の文章はとても大好きでした。ランキングにもちょくちょくあがっていて、タイトルが浮いているのもわかっていましたが、それでも面白くて読むのを止められませんでした。毎日更新していて、欠かさず読んでいました。

つまるところ面白いから読んでいたわけです。おそらくテンプレとか結局は関係なく、書籍化するにあれくらいの面白さが求められるんだという納得もありました。だからこそテンプレ批判に意味なんてあるのか?という気持ちも大きかったです。

結局、テンプレは有る程度の手段であり効率化です。それを選択しないことによるコストがあり、そこは読者が支払うことは今後もないということです。

悲しいですが作家さんが払っていくしかないことなので、これを言ってしまっても仕方がないというのが僕の結論になります。



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