作品への信仰と空想と駄文と(2850文字強


8月の大部分は色々と込み入った事情や、ストレス過多な環境でメンタルが及ぼす自分への身体の影響を鑑みた結果、数日間は流動食だけで食いつないでいたような生活を送っていた。


もっとも今は終わったので普通に飯は食ってるし、このご時世で閉店になるという各地のゲーセンにもいっている。もっとも、未だに抜け切れていない疲労に押しつぶされたのと、腕がなまった結果閉店しまくった。ちくしょう、腕前も含めてちゃんと復帰してやるぞ。

それはさておき、人間、ガチで追い込まれた場合は効率的に作業や勉強を終わらせるための思考以外は考えなくなるものだが、そのギリギリ一歩手前だと、余計な思考が入り込むことが多い。クーラーをガンガン効かせた部屋に籠りきりであった8月中旬の俺はそうなることが多々あった。


そんな中で好きな作品を糧に頑張っている中で唐突に思ったことがあった。マジで唐突にである。そして、その思考が何か思っていた以上に自分の中でしっくり残り続けているということと、ここ最近はまともな日本語の文章を書いていないなと思ったので、その練習の兼ねて一つ書こうと思い至ったのが今である。とはいえ、推敲も無しにただ指に任せて打ち続けただけの文章が「まとも」かどうかは分からない。少なくとも俺自身は違うと思っている。


さて、上で述べた「自分の中でなんかしっくり来た思考」に関してであるが、その切っ掛けとしては自分はその作品の何処が好きかを考えて、突き詰めると「この作品を生み出してくれて本当に有難う……」という感謝に行き着いてしまう傾向であるということにふと気が付いたことである。一種の製作者に対する傍から見たら気持ち悪いクラスでの信仰だ。

ただ、この傾向は少人数スタッフ作品相手への特有のものかと思ったら違ったという事にふと気が付いたのだ。

製作規模が大きい作品(要は映画やTV放映クラスのコンテンツ)でもスタッフへの感謝は当然あるが、規模の大きさ故に(主軸であっても)スタッフ単位の思考や意図が希釈されてしまうという考えは根底的に何処かであった。


これは恐らく私が「作品」に対して深く興味を抱いた最初の契機が、当時のインターネットの中でもアンダーグラウンドにある同人作品、特に”フリーゲーム”であったからだろう。


今のご時世では、steamやEpic gamesや任天堂といった巨大なプラットフォームを経由して販売されるようなインディーゲームは増えてきている。なんなら、フリーゲームも今となっては様々な情報媒体やSNSで話題に大きく取り上げられるどころかモノによってはメディア作品として大々的に扱われているものも多くである。すげぇ世の中だ、ほんと。


ただ、自分が「フリーゲーム」に出会って、その世界に魅了され始めた当時はアンダーグラウンドな世界で話題にされるだけであった。何処かレイアウトがチカチカするフリーゲームのまとめサイトや2chやしたらばの掲示板で発見し、作品毎のファンコミュニティも大規模作品以外では早々形成されにくいものであった。(奇しくも私は「大規模作品」であるシルバーセカンドシリーズに感銘を受け、そこに所属していたのでその点は幸運であった)


年端も行かないような年齢で同人作品に魅了された私にとっては、その作品自体は普通に楽しむ以外にも、サブカルチャー作品においての「製作者の意図や意志」を汲み取りまくろうという方向から楽しもうという意志もあった。当時の同人作品は基本的には個人単位で作成されていた。それ故に作者の直接的なコメントや後書きを読まなかったとしても、作者の思考や意志はほぼダイレクトに届いてくる。

それこそ一般社会で大規模に展開されるメディアでなら、小説がこれに該当すると思っている。漫画も同様かと問われたら、漫画は小説以上に作者本人以外の干渉者が多いと認識しているので自分としては首を傾げるところである。幼稚園時代から本の虫だったのも、「作者の思考や意志の読み取り」を元々好む気質であったからなのだろう。ただ、現代文の成績に直接反映したかとなると、私本人はバリバリの理系であるという所で推し量ってほしい。

けど、ここ最近はその捉え方が変わってきたと自覚していたが、まさか切っ掛けが物理学とは。


ぼーっとした頭で統計力学とかいう日常生活で生き抜くにはまず使わないであろう内容を勉強と言う名の斜め読みにしながら、ふと思ったのだ。


マクロな事象も、独立したミクロの事象の集合体や重ね合わせであるのには変わらないし、逆にミクロな物理量がマクロな事象に大きく影響を与える事もある。


これはこの小難しい学問に限らず、それこそフィクション作品にも言える話ではないかと。巨大な規模の作品においてのミクロな事象。これこそが「濃厚な作り手の意志」なのではないか、そのように思ったのだ。


詰まる話が、「両儀式と水上由岐という"史上最高の女"と会わせてくれた型月とケロQに最大の感謝」「iconoclasmって生まれた経緯も含めガチ推してくれるスタッフからの"愛"も尊い」「"明光院ゲイツ"を押田君がやってくれてマジ有難う………」って事である。

要は俺にとっては”何時もの事”であるが、その"何時もの事"こそが自分の中での「信仰」だったのだろうと気づかされた。


「だからどうした?」と聞かれるのはわかっているが、このように短い文章の間で一人称がコロコロ転じるような俺にとっては青天の霹靂、目から鱗だったのだ。


また、このように気付けたのは当時の生活が良い意味で「単純化」されていただけかもしれない。起床し、食事をとった後は勉強だけを行い、休憩時間では仮眠やゲームを取って、また食事と入浴を終えて睡眠をとって、時たま買い物に出掛ける。そんなルーチン重篤な引き籠り生活だからこそ、SNS断ちもしていることも含めて雑念染みた”情報”に押し流されることなく気付けたのかもしれない。

尤も、色々と済んだものの、この生活が一段落した………とはいえ、現状は一寸先は闇。もっと言うと「このままでは人生の未来が何も見えない」という環境下のままであるのは事実だ。現に結果待ちという状況下でまた流動食くらいしか食えなくなっている、本当に弱いな君は。


そういった場合に備えて、一人黙々とこの単純化された生活を続けていかなければならない気しかないために億劫でこの上ない。もじにかき表すだけでも面倒な上に、何故たかが凡人以下の愚人がこんなことをしなければと思うが他に方法がないゆえに仕方がないとも分かっている。

ただ、それでも自分は「身を委ねられる」ような製作者の意志が存分につぎ込まれた既存の/見知らぬ作品さえあれば過ごしていけるとも理解している。


だから、また新たな作品や記憶に深く刻みつけられた既存の作品に身を委ねるという「空想」を行いながら、馬鹿は馬鹿なりに頑張っていこうと思うのだ。




それはそうとノスタルジアのアルバム、あれ実質iconoclasmのアルバムじゃない………?え、どうでもいい?うん、そうだね………………。

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