大坂なおみ選手は、ナニジンか?

ぼくは、大坂なおみ選手のファンではない。

テニスそのものにたいして興味がないぼくだけれど、大坂なおみ選手が2018年の全仏オープン、2019年の全豪オープンを制した際のフィーバーに、ある種の違和感を覚えずにはいられなかった。その違和感とはむろん、大坂なおみ選手についてではなく、大坂なおみ選手をめぐるぼくたち日本人についての違和感である。

大坂なおみ選手の快挙は「日本人初のグランドスラム制覇」として語られた(言うまでもなく、グランドスラムとはテニスの四大大会のこと。具体的にはウィンブルドン、全米オープン、全仏オープン、全豪オープン)。それまで、グランドスラムにおける「日本人最高成績」は、四半世紀前、1996年の伊達公子選手のウィンブルドン準決勝進出以来だからだ。

大坂選手の快挙を「日本人初」とする事に異論はない。彼女はハイチ系アメリカ人の父親と、日本人の母親との間に、大坂で生まれた、日本国籍保持者だ。3歳でアメリカに移住し、アメリカでテニスプレイヤーとして育成されたが、所属は日本テニス協会だ。ふだんの会話は英語で、日本語は流暢ではない。でも、彼女が日本人である事に間違いはない。

ぼくがなぜ、違和感を覚えたかというと、流行語大賞となった「なおみ節」という言葉だ。

「なおみ節」とは、以下のようなものだという。https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/athlete/g62143/cna-naomi-osaka-naomibushi-181128-hns/?slide=1 から引用する。

「すごくハッピーだけど、申し訳ない気持ちでもいます。なぜなら、みなさんが私ではなく彼女の勝利を期待していたことを知っているので」2018年1月、全豪オープンで地元No.1のアシュリー・バーティ選手をストレートで破った後のインタビューにて。

「全米オープンファイナルでセリーナと戦うのがずっと夢でした。それが叶って本当に嬉しいし、あなたと戦えて感謝しています。ありがとう」2018年9月、セリーナ・ウィリアムズを破り大波乱を巻き起こした全米オープン。その表彰式で涙ながらにセリーナにこう述べると、ペコリとお辞儀。

この謙虚さが「なおみ節」だというのだ。

ぼくが違和感を覚えたのは、そこだ。たとえ勝利しても、喜びを表す時には指導者や、(金銭面で)応援してくれた支援者や、せいぜい仲間への謝意を木訥に(口べたに)表すだけのがよしとされる風潮が強く、その反動で「ビッグマウス」が過大評価されるけれど、いずれにしても、対戦相手への言及はしないのが当然とされる日本の体育会系世界と違い、特に英語圏の選手は、若い頃からスピーチの指導を受け、たとえ勝利しても敗者へのリスペクトを現し、傲慢なイメージを与えないよう訓練される。グローバルなスポンサードを得るために、人種やジェンダーの平等を標榜し、公正な世の中であることを訴えるのも、いわば常識。

大坂なおみ選手は、アメリカ育ちのアスリートに相応しい教育を受け、その教育の成果を発揮している。この点で彼女は、国籍は日本であっても、アメリカが育んだ世界的プレイヤーNaomi Osakaなのだ。

そして、一部のwhite americanではなく、colored peopleを含めた世界中のファンへの振る舞いを意識してきた彼女が、自らのafricanとしてのアイデンティティに基づいて、黒人差別反対を訴えるのは、アスリートとしてごく当然のことであり、ごく当然のことをやったからこそ、彼女は称賛されているのだ。

そう書くと、「要するに世界でお金を稼ぐために、有色人種やマイノリティが気に入りそうな言い方を学んでるだけだろ」という声が聞こえてきそうだ。そうではない。むかし、「ジーザス・クライスト・スーパースター」というミュージカルがあった。ガラリヤやサマリアといった荒れ果てた地で、病者や貧者を言葉の力で慰め励ましつづけた荒野をさまようイエス・キリストを、現代のスターに見立てたドラマだ。スーパースターとは、そういう存在だという基本的な認識が根底にあり、ビジネスはその上に成り立っているにすぎない。

アメリカの、白人警官による黒人への暴虐に端を発したBlack Lives Matter運動において、アメリカ国内のマイノリティがファンの中核をなしているkpopのファンダム(BTSやBLACKPINKの)は、例えばトランプ大統領の応援演説場所のチケットを買い占めた挙げ句に、ガラガラな会場を見せつけたりするなど、大きな役割を果たしている。そこを理解しなければ、なぜKPOPがこれほどグローバルなアイドル(まさに偶像!)となったのか、理解できないだろう。

浅黒い、日本人らしくない風貌で、勝っても謙虚な言葉をつらねる彼女を「やっぱり謙虚な日本人だ」「なおみ節だ」と、我田引水に捉えてきた多くの日本人が、その謙虚で愛らしい22歳の「なおみちゃん」が、事もあろうにホームグラウンドとしている国の最高権力者に逆らってまで、自らのルーツの誇りを守るために毅然とした態度を見せた事に、戸惑いを覚えたのも無理はない。それは、多くの日本人が抱いている、(目上に従順で単純素朴な)スポーツマン像とも、(謙虚で愛嬌に溢れた)若い女の子像とも、異質な存在なものだからだ。

だって、権力者にへつらうマスコミ人が女性をレイプしたり、忖度官僚が公文書を改竄したりしても、公正な法の裁きも免れ、それに対して怒りの声をあげる国民は少数派という、長いものには巻かれろというのが、今の日本人なんだもの。

多くの日本人は、日本人としてのプライドを満たしてくれ、それでいて、「大和撫子らしい」謙虚さを見せ、ますます日本人としてのプライドを満たしてくれる大坂なおみを求めていたのでしかなかった。でなきゃ、彼女をスポンサードする日本企業から、こんな声が聞こえてくるはずがないじゃないか。

「黒人代表としてリーダーシップをとって、人間的にも素晴らしい行為だとは思うが、それで企業のブランド価値が上がるかといえば別問題。特に影響があるわけではないが、手放しでは喜べない」
「人種差別の問題と本業のテニスを一緒にするのは違うのでは」

こういうくだらない企業を糾弾しないまま、日本人が、Naomi Osaka という素晴らしいアスリートを「我等が代表」として消費することは、絶対に許されない。 

【付記】大阪選手は、9月13日、みごと全米オープンを制した。試合後、決勝までの7回試合、それぞれ異なる名前の入ったマスク(警官に射殺された黒人犠牲者)をつけて会場入りした事の意味を問われた彼女は、「むしろ、あなたがたが、どうメッセージを受け取ったかを知りたい。議論になればいい」と答えた。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?