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飛び降り自殺から幸福の切符を手渡す人になるまで

「飛び降り自殺」というと、どんな感じがしますでしょうか?

「そんなにつらかったのか?」とか
「飛び降りる勇気がすごい!」とか
「衝動的にやってしまったのか?」とか

そんな質問を受けたりします。


実は、どうやって飛び降りたか記憶にないのです。

どうやってマンションの7階まで行ったかは
覚えていますが、次に気づいたのは
病院のベッの上でした。

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私は神奈川県で、父母、姉、妹の5人家族に産まれました。
2歳年上の姉、8歳年下の妹の間に産まれました。

今もそうですが、物心ついた時から重度のアトピーでした。
もともと母親が幼少時にアトピーで、姉も妹もアトピー体質でした。

私の母は育った環境があまり幸せではなかったせいか

ヒステリーなところがあり、いつも折檻してきましたので
私は、毎日、ビクビクして過ごしていました。

姉は母に反抗して向かっていくので、母がさらに激情、
それを見て、母親を怒らせないようにしようと母親の
ご機嫌を見るようになりました。

母は、いつも全否定な言葉でものを言い、過保護、過干渉、支配的
残念ながら、「優しいお母さん」のイメージは
持ったことがありませんでした。

そんな母ですが、美人なんです。
どうやら、父が若い時に海でナンパし、20歳の父と24歳の母が
結婚したそうです。

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父は厳しく、トラックの運転手をしていて
しつけとしょうして怒鳴ったりしましたが大好きな父でした。
また、父はアトピーを受け入れられなかったのか
私が抱きつくと、気持ち悪いから離れろ!と言うのでした。


母は厳しい後妻に育てられたせいか「我慢の人生」を
強いられてきたようで、子供よりも
「私をわかって」「私を見て」と子供を承認できない母でした。


母のヒステリー、今でいうDVはしょっちゅうあっただけでなく
2つ上の姉にもいじわるされてきました。

つらくて泣くと、母に「泣くんじゃない!」と
さらに怒られ、ぶたれたりするので
泣く場所もなく、ムスっとするのが精いっぱいで
自分の感情を出す場所もありませんでした。

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それでも、なんとかアトピーも自分で直そうと
食事とかいろいろ努力しましたが無理でした。

私は左耳が聞こえません。
幼稚園の時のおたふくで聞こえなくなったようです。
しかし、母に耳が聞こえないと言っても、ちゃんと聞いて
もらえずに怒られるので、
聞こえないけど、聞こえるふりをするようになりました。

怒られるから本当のことを言えない、そんな子供でした。


幼稚園から中学、私はいつもいじめられっこでした。

小学校のころから、劣等感、孤独感マックスで
暗い性格でした。
でも、この暗い性格を変えることなど
できませんでした。

いつも頭の中で

自分なんか生きていないほうがいい
いったいなんのために生まれてきたのか
私は何をやってもダメなんだ、、、

こんな声がグルグルしていました。

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中学校1年の時、 転校した学校でこれまでに
ないいじめにあいました。
暴力だけでなく、ゴミが机にしょっちゅうおかれていたりしました。

泣くと母に怒鳴られるので、いつもは泣かないように
するのですが、この時は、あまりにもつらくて、

朝、玄関を出る時に泣いてしまいました。

それをみつけた母に、理由を問い詰められ

学校でいじめられているというと
母が激怒して即効学校に訴えに行きました。

そこで先生の配慮があり、いじめはおさまったのですが

生徒の一人が「いじめたのはアトピーのせいじゃないよね、
その暗い性格のせいだよ」と言われたのです。


そう、実は、アトピーだけではなく、この暗い性格

なんとなく気づいていました。

劣等感、孤独感、自己否定、、、

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それでも、2,3年生はいじめにあわずに
平和には暮らせました。

でも、表面的には、明るくしているけれど
自分なんかという劣等感を拭い去ることは
できませんでした。

勉強する気がなく、相変わらず
家でも怒られて居場所がない

そんな毎日を過ごし、女子高へ進学しました。


新天地のはずですが、暗い性格はそのままで
みんなに溶け込めず、孤独感を味わう毎日でした。

もう死んじゃいたい、、、
こんな私にしたのは、すべて親のせいだ!
親に恨みしかない毎日でした。

高校1年の夏休みになり、夏休み中の登校日に
いつもいつも一人でいることに耐えられず

もういいや、、、
生きてることに疲れた、、、

どうせ何をやっても無駄、、、
生きてる意味なんかない、、、


私の足は、近所の7階建てのマンションに
向かっていました。

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次に気がついたの時は病室でした。

何をどうしたのか今でも記憶にありません。

でも、死ねなかったことだけはわかりました。

どうやら、足から落ちたらしく、病院に
運ばれた時は、かかとや足首、足の骨が出る粉砕骨折。

脊髄、脳、は大丈夫でしたが、顔、顎が、、、
粉砕骨折になり、歯はほぼなくなってました。

あまりに出血すごく、輸血しても間に合わず

両親は、「出血すごすぎて、あきらめてください」
と言われたそうです。


病室で目が覚めて、身体中が痛いなか、なぜこんな
ことをしたのか、と聞かれ

話せないので、書きました。


「学校に行きたくない」と伝えたら

母はいきなり、「学校行け!」と怒鳴りました。

感情むきだしの母を病院の先生が抑えてくれました。

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実は、私は飛び降りる前に遺書を書いていました。

その遺書には、母のせいでこんなになったと
母を責める遺書でした。

死んでしまえば、遺書でしたが、こうして生き残って
しまい、母親のせいだと書いたために
ますます、母との関係はこじれていきました。

病院の先生だけは私の味方で、いつも母親の
私を責める感情を抑えてくれました。


4か月で退院となりました。
最初は、あまりの粉砕骨折なので、一生車いす生活。
歩けないでしょう、と言われたのですが
奇跡的に歩けるようになったのでした。

入院生活がとても快適だったの退院したくありませんでした。

家に帰るやいなや、また以前と同じ抑圧生活が
待っていました。

私に攻撃的な母と姉。
母と姉がいると思うだけで、気が休まらない
自分が出せない、居場所がない、が始まります。

普通なら、母親が子供を守っても当たり前かも
しれません。

でも、私はいつも、守られない、認められない、
かばってもらえない、何を言ってもやっても否定される
いつも自分が悪い、私のせいになっている
そんな毎日でした。

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ちょっとのことで母や姉から攻撃されるので
私は頭がおかしくなりそうでした。

そこで、家から出る手段を考えました。

女子高を辞めて、退院して半年で通信制の高校に転校していたので、
あいた昼間の時間を家にいなくて済むように
バイトを探しました。
うまく歩けないので、自転車の練習をして通勤することにしました。

やっとみつかったのが工場のバイト、週に5,6日フルに
働いて、月7万円の収入でした。

それでも家に3万円を入れろと言われ、残りの4万円が
私のお昼代含むお金になりました。

お金よりも、家にいなくて済むことがなにより幸せでした。


そして、しばらく働いていたのですが、再入院することが必要になり
、入院したのをキッカケにその工場をやめました。

でも、その再入院のおかげで、2年後、
野外コンサートに行けるようになりました。

自分で稼いだ経験、歩けるようになり
コンサートにも行けたこと

これらの体験を経て、やっとそこから、
「親のいいなりをやめた」んです。
「母親に怒られるから、、、」をきっぱりやめることができました。


暗くてみんなに嫌われるような性格だったのが
だんだん外に出るようになりました。

20歳で職業訓練校に入りました。
そこで、知り合った人と21歳結婚しました。

21歳まで親といっしょに住んでいましたが
親との和解ができていないままでした。

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そんなことを脇におき、22,23歳 と
娘が産まれました。

夫も私も若かったせいもあり、お互いを
良く知らないまま結婚したのもあり
夫婦関係は、どんどん気持ちがすれ違い
2人目の娘を産んでから、夫を全くうけつけなくなってしまいました。

夫は信頼できない、嘘つく、夫の両親の前でも
私をけなしたり。
私の中で
「やはりこの人も、私をかばってくれない」という
思いが強くなっていきました。


私は子供を産んでから、変わりたかったです。
暗い自分、劣等感のある自分とさよならしたかったんです。

でも、なぜか、なぜうまくいかない、、、
もーいいや
誰かに求めるのはやめよう、、、
一人でいい、、、と思ったんです。
求めても裏切られるなら、淋しいからと
人に求めるのをやめたんです。

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そうしたら、人が寄ってきました。

若く結婚した私たちは貧乏だったので、
私は居酒屋でバイトを始めました。
すると、なんと
「世の中には、こんなにいい男がたくさんいるじゃないか!」
と気がつきました!

私は、ずっと、自分に、あれはダメ、これもダメと
いつも自分にダメ出しをして狭い世界しか見ていなかったのでした。


夫は外面が良く、外でとてもいい人でした。
逆に私は、きつい奥さんのように映っていたと思います。

夫との距離がどんどんできて、同じ空間にいるのが苦痛でした。
そして、家庭内別居、夫が外に女 ギャンブル好きになって
いきました。

もう無理!と31歳で離婚しました。

夫はカンタンに別れてくれず、調停に持ち込みました。
夫はあれやこれやといろんな嘘をつき、私を貶めましたが
結局、夫の言ってることが嘘だとばれて
2か月間、調停で争った結果、離婚できました。

夫の浮気で200万の慰謝料をもらい、養育費ももらえました。

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子ども2人を抱えたシングルマザーになりましたが
腹をくくりました。
近所のパートで毎日働きました。

20代後半からスピリチュアルに興味が出てきた私は
いろんな出来事は、自分に原因があると思っていました。

自分が変わらないといけない、、、
自分が夫を憎んでいたから、夫が大嫌いになったので
夫との争いごとが起きた!だったら
私の心が平和になればいいんだと思いました。

でも、思っても現状が変わったわけではありませんでした。
今、思えば、顕在意識で理解しても、潜在意識が変わって
いなければ無理だったんです。

離婚後、ストレスからか、アトピーがどんどんひどくなりました。
外でバイトをして働いていましたが、35歳の時
とうとう、身体がボロボロになり、家でできる仕事を探しました。

SNSで電話占いの仕事をみつけて、やり始めましたが
お客さんのマイナスな気を浴びすぎたのか、自分がうつ病に
なってしまいました。

つらくて動けなくて、働けなくて、、、

家賃もしょっちゅう滞納してました。
不思議なことに、ほんとに困ると誰かが助けてくれました。

家賃を3か月滞納して、ほとほと困った時
もう誰も頼れない、、、

そこで 困り果てた私は、元の夫に連絡しました。

ありがたいことに、夫はすぐに助けてくれました。


そこで、昔、よく夫が私に言ってた言葉を思い出しました。
「おまえが俺を頼るのは車の送迎だけだろ」

私は、彼は頼ってほしかったらしいことに
やっと気がつきました。
結婚生活をしていた時、この人は私をかばってくれない
守ってくれない人って、決めつけてしまったので
なんでも自分でやり、夫に頼ること、夫という存在
を気にかけなくなっていたんですね。

夫は淋しかったんだ、と、やっと彼の気持ちの
一部を理解でき、困ってる私たちを助けてくれたことに
感謝できるようになりました。

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2006年~2011年、動けなくて寝込んでいた時
ある時、内側から
「そのままでいいんだよ」と、声が聞こえました。

それまでは、これだけやってるのに、、、
と緊張と自己否定と恐怖の毎日でしたが
「そのままでいいんだよ」と声が聞こえた時
いっきに、力が抜けました。
それから2011年、地震のあとから
変わったようで、だんだんがよくなってきました。

どうしたら私の内側が平和になるのか?
どうしたら私は大きく変われるのか?
どうしたら私は内面からよくなるのか?

どうしても変わりたくて、毎日ネット検索していました。

2012年、大阪の有名な人が東京にきたのです。
憧れていた人でした。
あとからその先生がビジネスコンサルもやっているのを知り
思い切ってお願いしました。
思い切って、ブログを始めました。
その先生のおかげで、私はやっと動き出しました。
2013年は、セミナーオタクとなり、いろんなことを学びました。
レイキやヒーリングも学びました。
どうにか内側を変えたくて
どうにかして元気になりたくて
本を読んだり、パソコンで検索、情報収集
うつとアトピーとむきあったのです。
やってたけど、まだまだよくならない、、、

その試行錯誤する日々から、なんとかその学びを
形にすることができるようになり
2013年~2014年は毎月60万円稼いでいました

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その後、信頼していたコンサルの先生が方向を変えてしまい
その先生についていく気がしなくなりました。

それから、目標をなくしたかのように、恐怖に襲われました。
2015年~2016年は、ふたたび 落ち込み期間でした。

2015年楽読に出会いました。
楽読では、いっしょにやっている人たちの感覚が
やっと同じ感覚の人たちに出会えた!と思えました。

ある日、楽読系列で無限大ライブというのがあり参加しました。
そこで知り合った人が
勾玉を持っていたのでした。

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勾玉?集合意識?ってなに?

なんだかわからないけど、この現状を変えられる
ならやってみよう!
と、勾玉セラピー、集合意識覚醒法を勾玉で学びました。


それまで、抑圧がまだまだあり、人前では
あまりしゃべれなかった私でした。

ところが、この勾玉セラピーでは、話さなければならないこと
話す機会が多くなり、話すことによって自分がどんどん変わって
きたことがわかりました。

楽読も素晴らしいものですが
私は楽読だけでは自己肯定感は上がらなかったんです。

それが、勾玉セラピーでは徐々に自己肯定感が上がっていきました。

本当に別人かと思うほど相当変わった、変われたのです。


集合意識覚醒のメソッドで感情の統合と岩戸開きで
封印していた感情を出せるようになったのです。

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私は今、
こんなに最高に幸せな人生を生きてる人は居ないと思って生きてます。

飛び降り自殺をするほどの挫折
そこから、人生そのものが宝 だとわかりました。
その宝を使わないからお金が入らないんだともわかりました。

命を使っていく
使命とも書きます。

私は、私の体験こそが使命であると確信しています。

今までは、 私より凄い人がいる、、、と人と
比べてしまったりしましたが、
それこそ我の発想でした。

1番がよい100番がダメは比べてるだけでした。

みんなが宝物なのに、比べることになんの意味があるでしょうか?

私の体験が誰かの役にたつ、、、
私を待ってる人がいる 、、、

ご飯会やろうというとみんなが集まってきてくれる
いつも1人以上(ここ大事)来てくれる人がいる
かほりんだから頼む と言ってもらえる喜び。

アトピーで苦しんできたことが、
その肌と付き合って来たからこそ
食にこだわって来れた結果。
かほりんの料理は癒されると言って 沢山人が集まってくれる

なんて私は幸せなんだろう、、、

ないものにフォーカスするのではなく
あるものに感謝できる幸せ。

私の体験が、誰かの命を救う、、、

私は命を捨てようとしたけれど
神さまはもう一回命をくれた 、、、

歯がないのも 足が悪い事も人生の誇り
自慢 になりました。

統合の人生を2017年から歩んでいて
自分を全部愛して大好きです

人と比べて落ち込むことは今でもあるけど
統合してパワーに変えることが出来る 今。

自分の宝を使って人を照らしていく事が出来る 今。

あなたも、生き抜いてきた宝を世の中に届けてほしい
私は 人生を一生懸命やってる人に愛を届けたい
あなたの中にも宝が沢山あるって。

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