「居場所は自分で作るもの」だとしても

「置かれた場所で咲きなさい」。ミリオンセラーとなった、修道女のこの著書は、タイトルだけは知っているという方も多いだろう。または読んだことのある方も。
私はこうは思わない。自分の居場所を探しに探して、自分で掴み取ってきた人生だ(無論親の支援が大いに作用しているが、自ら行動してきたという意味で、便宜上)。

だがそこまでのガッツももはやなくなった。居場所を探したとて、それらは全て虚像だったからだ。

無事に反抗期、思春期が終わった。親の存在を、心からありがたいと思えるようになった。実家を離れて、実家が恋しい、帰りたいと思うようになった。やっぱり私の居場所はあそこなんだと。
別にそんなことはなかった。もちろんあたたかくおかえりと迎え入れてくれるが、期待したほど近況を聞いてきたりはしないし、私が実家にいたあの頃と同じように、ニュースを見ては文句を言っている、家族。
別に彼らはそれでいいのだ。彼らは、もはや日常となった私のいない日々を続けているだけなのだから。今や異物は私の方だ。「出て行った側」なのだから。

ここまで詳細に書くと、相当の被害妄想と感じるかもしれないが、とにかく感じたのは、「ああ、私はここから巣立つ時が、もう到来してるのだな」ということだ。自我すら持たず親のありがたみという概念もなかった子供の頃、親などいなくても生きていけると思っていた思春期、ようやく大人になって家族のありがたみが分かったのに、分かった瞬間さようならなんだ。大人にならなくちゃいけないんだ。大好きだし、ありがたく思ってるのに、居場所としてはなんか違う、この人たちと一緒にはもう住めないなという違和感、それが誇らしいような、寂しいような。
不思議なのは、こう感じたのと同時に、次は私が家族を作る番なんだな、と思ったこと。別に誰にも強制されたわけでもなく、自然に思った。

私がいる場所としての居場所じゃなくて、私が誰かの居場所になれたら、なんかようやく、結果的に、ずっと求めてた居場所ができるような気がする。子供を産むとかまではまだピンと来ないけど、私が選んだ人と、家族をやっていけたらなという望み。
すでに他の人がいる場所に、自分の縄張りを作ろうとしてたから、ずっとなんとなく違和を覚えていたのかもしれない。
虚像ではなく実態をもつ、居場所に、はやく成りたい。

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