満足に死ぬために、日々を生きる

ぼくの生きる目的は満足に死ぬことだ。これは 21 歳の冬に抱いたぼくの生きる目的で、そこから全くブレず、いかに満足に死ぬかを考えて日々を生きている。

ぼくは 13 歳の時に生きる意味について深く悩んでいた。色んな機会が溢れているのに大した目的もなく日々を消費していて、教科書やテレビで見るやりたいことがあるのに機会を得られない貧困国の人々にすごく申し訳ない気がしていて。何かしらぼくも生きる意味とやりたいことをもたないとっていう少し強迫観念の様なものを感じていた。

その答えを頭を悩ませ探しながら 8 年間を生きていた。正直苦しかったし鏡や影を見るだけでも自分の存在を不安に覚え、震えが止まらなくなる時期もあった。死を受け入れようとしたこともある。

いまは自分の中で生きる意味が言語化された、とても健やかに日々を送っている。生きる意味である「満足に死ぬ」ために最大限生きてるし、周りの人にも恵まれたのしい日々を送っている。

イエス・キリストが生まれたとされるクリスマスの前日に、六本木のけやき坂でイルミネーションを眺めていた所、自分の死生観について色々と言語化されたのでこの機会にまとめてみることにした。ただのポエムなのと、いまぼくは病んでいないので心配してくれた方々は安心してほしい。

「生と死は表裏一体で、それは日常にも隠れているのです」という言葉に出会ったのは 18 歳の浪人生の頃。自分の中で生きる意味を見つけられず、浪人生として机にかじりついていた頃だ。この言葉を送ってくれたのは、予備校で英語を教えていた大島先生。授業以外で話したことは無いんだけど、ぼくは彼に一生感謝していきていくんだと思う。

彼は授業中にも関わらず、生と死に関する雑談をはじめた。「死は遠いものの様に感じるけれども、意外と近くに潜んでいるのです。街中を全力で、もう脚が動かなくなるまで走ってみてください。息が切れて呼吸するのもやっとになった頃、君は『死にそう』とつい言葉に出すでしょう。生き生きと生命をほとばしらせて走っているその瞬間、きみは『死』を感じたのです。」

衝撃で鳥肌が立つぼくを横目に笑顔で先生は続ける。「ほらね、生と死はとても近くにある。そしてそれは『生き生きとしている』ときにちらっと顔を出すのです。だから『死ね、生き生きとするから』って言うわけじゃないですよ。君たちにはすぐそこにある死を感じながら、日々をしっかり生きてほしいのです。さすれば死ぬ時に思い浮かべるあなたの世界は、とても輝いているはずです」と。

この瞬間にぼくが見てる景色は一変し、数年に及ぶ鏡や影から逃れる生活も終わりを迎えた。うまく言語化できないんだけど、ぼくはこのタイミングからちゃんと日々を生きようと前に進むことができるようになった。大島先生は死人の様にいきていたぼくを人間として生かしてくれた。

これでぼくは悩みが晴れ、大志に向かって歩みだした ... と続けばお話はきれいだけれども、やっぱり現実はそうは簡単じゃなかった。ぼくは次の疑問を抱き、その後4年間別の苦しみを味わうことになる。「日々を生きる」ためにどうすればいいのか分からなかった。ぼくは日々を生きるというメッセージを「満足に死ぬために、日々を生きる」と受け止めてしまったことも自体をややこしくした。

ぼくにとって「満足に死ぬために、日々を生きる」というのを血肉化させて暮らしていくことは、想像以上の難しさがあった。なんせ、死はいつ訪れるかはわからない。 10 年以上先かもしれないし、これを書き終わる前にひょんなことから死んでいるかもしれない。

いつ来るかも分からない未来にある「死」を満足できるものにするためには、いま行っていることと一緒にいる人が、今この時点でも未来のどの点であっても最高な状態でなくてはいけない。この不確実な世の中にそんなことができるのか。

このテーマを納得できる形で理解するために 4 年かかった。宗教、哲学、言語、物理などの学問や歴史、気の置けない友人と話す中でその答えを探そうとしていた。

この時出会ったのが、世界大会に出るようなプロアスリートのカウンセリングを本業とする心理カウンセラーの人だった。忙しい中週に 2~3 回 30 分の時間を無償で、 3 年程割いてくれた彼には死んでも感謝をし続けることは間違いない。

話が長くなってきているので彼と話したことについては割愛する(あまり覚えてないだけなんだけれども)。とはいえ、彼のカウンセリングのおかげで自分はいま生き生きと生きてると自信を持っていえる。明日死んだとしてもぼくは大満足だ。精一杯生きた。結婚して子どもとの時間はちょっと楽しみたかったけど、こればっかりはしょうがない。

ちなみに、満足して死ぬために心がけていることは単純で「好きな人といまも未来も好きであろうことを、無理せず好きなだけやる」だ。一番むずかしいところはきっと、ここに当てはまらないことの処理の仕方だと思う。まぁそれらの躱し方は人それぞれだしあえてここで書くほどのことでもないだろう。

ぼくは人生とは「最高な死をデザインするための旅」だと思っている。夢中になれることがあったり、良い匂いのする部屋でだらだらソファで寝転がったり、愛する家族との美味しいご飯を食べたり、最愛のひとと家族を持つこと、これら全てはきっと最高な死のためにデザインしないといけないことだろう。

ぼく自身の話をすると、いまはちょっと悩んでいる。生涯をかけて関わっていたいような夢中になりたいと思うことが見つからず、何となく生きている心地が強くなってきたからだ。まぁこればっかりはすぐに見つからないものだろうし、アンテナ張りつつ日々を生きていこうと思う。きっと前向きに悩んでいるこの瞬間でさえ、死をいい感じにデザインしてくれるんだろう。



お酒と映画と読書が大好きで夜も眠れません。たくさん働きます。 プロダクトマネージャー ← 受託開発会社代表(コーディング/セールス/PM)。 fintech / プロダクト / 映画の呟きが多め。 ストーリーあるものが好き。