2024年3月26日 総合的な良識とローカルな良識のギャップ

日記パート1

 「自分が気づかないまま足を踏んでいる他者がいる状況はなくさないといけない。そのためには積極的に自分の知らないものを知ろうとして、たくさん不快な思いをしないといけない。怒りや苦痛を伴わない多様性なんて全部欺瞞だ」と思いながら生きてきたけど、本当にこれでよかったんだろうか?
 ここ数週間くらい、そんなことを考えている。

 自分が1ヶ月以上引きずっている、性差別フェミニズムの話なんだけども。
 フェミニズムは頭ごなしに無視できるほど無価値ではない(差別的だとしても生の人の声は存在しないものとしていいはずがない)し、無視できないほど規模も大きい。しかし一方で、真面目に向き合うにしては先鋭化しすぎていて……彼女らの話をきちんと聞いた上で批判しても無視されるだけだし、もはや傾聴することにすら意味はなくない?という次元まで来てしまっていると思う……。

 少なくとも自分自身に胸を張れるように、なるべく世界から目を背けない(気に入らない主張にも目を通す)ようにしたいが、実際問題、とても難しいなぁ!!!って感じだ。

日記パート2

 これと関連する話として、「自分がいい人・優しい人でいるためには、なにかしら狭い世界に引き籠っている必要があるよなぁ(仮)」という命題も最近意識に浮上してきている。

 そりゃお前、自分と近い学歴で、近い思想で、近い趣味を持った人たちの中にいる分にはスムーズに生きていられるよ。けれども一歩外の世界に目をやると、例えばアメリカに移住したりなんかすると、肌の色だけを理由に唾を吐かれるようなことだってあるかもしれないし、そうなるとこちらだって怒りを露わにせざるを得ないだろう。そうあってほしくないと思っていても、「アメリカ人は人種差別意識が強い」って偏見が事実に裏打ちされてしまうことだってあるだろう。
 世界には物理的にも精神的にもいろんな場所があって、本当なら地球の裏側の社会問題にだって関心を払わないといけないのに、それをするといろんな話題に対して非常にラディカルな態度を取らざるを得なくなる。

 矛盾のない総合的な良識とローカルで世俗的な意味での良識を両立させるうまい方法はないんだろうか。
 最近はそんなことを思っているが、自分で言うのもなんだけど、自分と同じ視座の人間は滅多にいないので何も解決できないでいる。

日記パート3

 この話の補足をしよう!
 自分は一時期、とある界隈で(これもまた自分で言うのもなんだが)かなりの聖人としてロールプレイをしていた過去があり、(同上)あの時の自分は間違いなく聖人だった……と思うと同時に、それはデフォルメされた聖人のロールプレイであり、本当に自分自身だったのか?とも思うわけだ。
(もしかすると軌道に乗っているアイドルやVtuberなんかも同じような意識を持っているかもしれない)
 ローカルな意味での八方美人、当たり障りのない言動を最優先にして、自分の意見や正義感を一切表に出さないロールプレイ。本当にそれが正しいあり方なのかと。

 あの日々はとても充実していたし、外面も内面も満たされてもいたけれど、同時にずっと「本当の良識はこんな形をしていないんじゃないか」という思いがあった。

読書の話

 1月末にコロナに罹って、そこから動画投稿やカニノケンカ・ニに励んでいたので本を読む集中力がすっかりなくなってしまった……。

漢詩の世界

 わけあって中国文化を学ぶ必要があるので、かなり背伸びして読んだ……が、かなり漠然とした雰囲気しか掴めなかった(かなり漠然とした雰囲気だけはバッチリ掴めた)。


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