見出し画像

セスブック 個人的現実の本質 第2章リアリティ現実と個人の観念 その2

さて、口述しましょう。

あなたの意識的な観念が、身体の働きを管理しています。
逆ではありません。あなたの内なる自己は、自らがあなたの知っている、世界でうまくやっていけるように、
物理的に意識する、つまり物質的に、集中されている意識を、採用しています。意識的な心は、
特に外界の活動を管理し、目覚めているときの経験を処理し、物質的な仕事を監督するように、なっています。

リアリティ現実の本質についての、意識的な心の観念が、自己の内側の部分に伝えられます。
それらは主に、今回の人生のリアリティ現実についての、意識的な心の解釈に頼っています。
意識的な心が、目標を設定し、内なる自己が、自らのあらゆる能力と無尽蔵のエネルギーを、
総動員してそれらを成し遂げます。意識的な心のすばらしさは、決定を下して方向を定める、まさに、
その能力にあります。けれどもその役割は、二元的です。内と外の状態をともに評価し、

物質世界からのデータと、内なる自己からのデータを、ともに処理するようになっています。
意識的な心は閉ざされたシステムではないのです。人間であることが、そのような意識を使って、
鋭く識別することを余儀なくさせます。多くの人々が、自分自身の考えを恐れていますが、それらを調べません。
そしてほかの人々の観念を受け入れます。そういう行為は、内部と外部の両方からの情報を歪めてしまいます。

直観的自己と、意識的な心とのあいだに、闘争はありません。自分の意識的な心に、入ってくるすべての情報を、
直視することを拒むとき、闘争があるように見えるだけです。反省して、しょっちゅう行動を改めたりすることは、
避けたほうが楽だと、思われることもあります。しかしそうすると、たくさんの受け売りの観念を、集めてしまいます。

なかには、互いに矛盾する観念もあります。すると身体と内なる自己の両方に、伝えられる信号が、
スムーズに流れなかったり、明確なものではなくなったりするほかに、反対の指示の、ごちゃ混ぜになります。
それらは、たちまちさまざまな形で、警報となり、その結果、身体がきちんと機能しなくなったり、
感情の状態が、全体的に悪化したりします。そういった反応は、実は、すばらしい予防装置であり、

変えるべきところが、あるという合図として受け取られるようになっています。同時に内なる自己は、
自らの視界を、はっきりさせるための洞察や、直感を意識的な心に伝えます。しかしあなたが、内なる自己を、
危険なものであり信頼できないと思っていたり、夢やどこからか進入してくる、霊的なマテリアル情報を恐れたりすると、
内なる自己の助力を拒み、そっぽを向くことになります。

そのうえ、自分は、苦境を受け入れなければならないと信じていたら、ただその観念だけで、あなたは問題を、
解決するのを思いとどまり、かねません。くり返して言いますが、あなたの考えと、観念が、あなたの経験の構造をつくっているのです。

あなたの観念と、それらの根拠は、あなたの意識的な、心の中で見つけることができます。自分のふるまいの原因は、
この人生の過去や、ほかのどこかに永遠に、埋もれているという考えに、同意するなら、その観念を変えるまで、
あなたは、自分の経験を変えることはできません。わたしは、いまだいたい普通の経験のことを話しています。
誕生から、始まる病気のような特別な領域については、後で論じましょう。自分のリアリティ現実を、つくっているのは、

自分自身だという気づきは、あなた方を自由にします。あなた方は、自分の成功や喜びに対して、責任があります。
人生のけっして満足しているとは、いえない領域を、あなた方は、自分で変えることができますが、自分の存在の責任を、
とらなければなりません。あなたのスピリットが、自らを肉体と結びつけたのは、肉体となって、途方もなく豊かな世界を、

経験するためです。つまり、あまたの色、そして形態からなる次元のリアリティ現実を、創造するのを手伝うためです。
あなたのスピリットは、感覚の気づきという驚くべき領域を富ませ、物質的形態となったエネルギーを感じるために、
肉体となって生まれたのです。あなたは、自分の身体を通して自分自身を使い、享受し、表現するために、
そして意識の大いなる拡大を、助けるためにここにいます。人間の状態の惨めさを嘆くためではなく、それが自分の好みに、

合わないと気づいたとき、自分の内にある喜びや強さ、生命力によってそれらを、変えてしまうために、
そして肉体に、宿るあなたのできる限り、忠実に、美しくスピリットを創造するために、ここにいるのです。

意識的な心があるおかげで、あなたは外側の物理的宇宙をながめ、自分の精神的活動の反映を見、
自分の創造したもの、人々と共同創造したものを、知覚し評価することができます。意識的な心は、
いわばあなたが、外を見るときの窓です。あなたはその窓から外を見て、内なる自己の成果を知ります。
しかし、誤った観念によってその広大な視界を、ぼやけさせてしまうことがよくあります。

あなたの喜びも生命力も成果も、「あなたの身に降りかかる」、出来事の結果として、外部から来るのではありません。
それらは、あなたの観念の結果である内面の出来事から生じるのです。暗示の性質や、重要性について、
多くのことが書かれてきました。いまの見方の一つに、人は絶えず暗示に、左右されているというものがあります。
あなたの意識的な観念は、あなたが受け取るもっとも重要な暗示です。ほかのすべての考えは、心の中でほとんど、

一日中続くたえまない、意識のおしゃべりに沿って、つまりあなた自身によって、あなたに与えられる暗示に沿って、
あなたが、本当だと信じていることに、合えば受け入れられ、合わなければ拒絶されます。ほかの人々によって与えられる暗示は、
それが、一般のリアリティ現実の性質についての、あなたの考えや、あなた自身についての、個人的な概念と一致するときだけ、
受け入れられるでしょう。意識的な心を正しく使っていれば、心に浮かぶ観念を調べるし、それらを手当たり次第に受け入れたりはしません。

意識的な心を正しく使っているときには、内側からやってくる観的な考えにも気づきます。外から来る情報を調べなかったり、
あるいは内に浮かぶデータを無視するとき、あなたは、意識の半分も使っていないのです。あなたが調べなかったのでたくさんの、
誤った観念が無差別に受け入れられ、内なる自己にリアリティ現実に、ついての不完全なイメージを与えてしまいました。

物理的な経験を、評価することは、意識的な心の役目なので、内なる自己は自分の仕事をも正しく果たすことが、できずにいました。
その責任が内なる自己にあるというなら、意識的な心は必要なくなるでしょう。内なる自己は警告を受け取ると、
次々と自動修正手段を導入して即座に事態を改善しようとします。状況が手に負えなくなると、内なる自己は、
意識的な心の制限のある領域を避けて、ほかの活動層に向けてエネルギーを放つことで、問題を解決するでしょう。

たとえば内なる自己は、何とかして、論理的な知性の点となっている周辺に働きかけようとします。いろいろに矛盾し合う、
あなたの大量の観念から、もっとも活性化できそうなひと組を、選んで送り出すこともよくあります。すると、それは突発的な啓示として現れ、
その人が行動を変える、新たなパターンとなるのです。自分の論理的な知性の中身に、気づいている必要があります。

あいまいなものを見つけてください。あなたの観念は、どのようなものかにかかわりなく、本当に肉となり素材となります。
あなたの存在自体が奇跡なのです。あなたの考えが、成長して出来事になります。世界は、悪いものと思っていたら、
悪いもののように思われる出来事を経験するでしょう。宇宙の観点からも、あなた方の知っている世界の観点からも、偶然はありません。
あなたの観念は、花が育つのと同じくらい確実に、時間と空間の中で育ちます。このことに気づくと、それらの成長を、感じることさえできます。

意識的な心は基本的に好奇心が強い、つまり率直です。そして、また自らの中身を調べることができるようになっています。
しかし、西洋人の多くが前世紀の、心理学的な理論のせいで、意識的な心の主な目的は無意識のマテリアル情報を、
抑制することだと信じました。そうではなく、さきほど、このセッションで、述べたように、意識的な心は内なる自己から、
来る重要なデータもまた受け取り、解釈するようにできているのです。放っておけば意識的な心はそれを、とてもうまくやってのけ、

受け取ったり、解釈したりします。けれども、これまでのところ人間は、自らの意識的な心に、外側の世界から来る情報だけを取り入れ、
内側からの情報には、壁を打ち立てるようにと教え込んできました。そのような状況から、人間は、自分自身の最大限の力を、
使えなくなり、自らの存在のかなめである、根源からいまや意識的に自分を切り離しています。そのため特に、
創造的な表現が抑制され、意識自体が、本来なら絶えず生じる、洞察や直感を得られないのです。

考えと感情は、切り離されているように思われます。創造性と、知性は、きょうだいとしてでなく、
たいていは、見知らぬ人同士のように現れます。意識的な心は、鋭い切れ味を失い、利用できる膨大な量の、
内なる知識を使おうとしなくなります。自己の中で分裂が、これは幻想なのですが、生じます。本来、自己は、
一つのまとまりとして、しかし絶えず変化するものとして、自然のままに活動します。意識的な心は、内と外の両方の声を聞きながら、

物質的な源と、非物質的な源から、受け取る自己の知識を組み合わせて、観念をつくることができます。
そのあと観念は、ほかの活動に加えて、自然に容易に苦もなく検討されます。けれども、いったん矛盾する観念の集まりが
意識的な心に取り込まれてしまうと、それらをえり分けるために、一定の試みが必要になります。覚えておいてください。
外側の世界での、経験は観念が具現化したものなので、誤った観念でさえ、物理的なデータの観点から正当化されたもののように、
見えるのです。ですからあなたの感覚が、一定の観念を明白な事実だと告げてきても、自分の概念の素材を吟味する必要があります。

自分の経験を、部分的にでも変えるには、自分の考えを変えなければなりません。あなたは、これまでずっと自分のリアリティ現実を、
つくってきたのですから、これからも結果は自然についてくるでしょう。自分の観念を変えることができると確信し、
自ら変えようと、しなくてはなりません。制限する観念を、濁った絵の具だと、そして、あなたの人生を、台無しにされた多次元の絵だと、
考えてごらんなさい。画家がパレットを替えるように、観念を取り換えてください。画家は使っている絵の具を、自分と同一視したりしません。

自分が、絵の具を選び、絵筆で描いていることを知っています。あなたも、同じようにして自分の観念を使って、自分のリアリティ現実を、
描いているのです。あなたは、あなたの観念ではないし、考えですらありません。あなたは、それらを経験している自己です。
画家は一日の終わりに手が絵の具で汚れているのに気づいたら、どうして、汚れたのかを知っているので、容易にそれを洗い流すことができます。

制限する観念を、自分の一部と見なし、そのため永遠に自分に、属するものと思っていたら、洗い流そうとは思わないでしょう。
そして、「この絵の具はわたしの一部なのだ。その絵の具がわたしの指を汚したので、わたしにはどうすることもできない」、
などと、頭のおかしい画家のようにふるまうでしょう。自分の考えに、自然に気づいていることと、それらを調べることに矛盾はありません。

もっとも、矛盾があるように思われるかもしれませんが。自然のままでいるということは、盲目になることと違います。
やってくる情報を何もかも自分に取り込み、事実として見さかいなく、受け入れることは、自然のままとはいえません。
本当に自然のままであれば、多くの観念はまったく無害に自動的に消えていきます。ところが、人間は、しょっちゅう観念を心にためこみます。

これまでに、受け入れられた制限する観念は、言ってみれば抑制の苗床のようなものを、形成して同類の素材を集めるので、
心の中はガラクタでいっぱいになります。自然のままでいるとき、あなたは、心の自由な性質を認めるので、心は自らが、
受け取った情報が、正当なものかどうかに関して自然に決定を下します。しかしあなたが、その役目を意識に与えないと、
心は混乱してしまいます。スミレの花を、つくろうとするリンゴの木はありません。リンゴの木は自分が何であるかを、
そして自らの、アイデンティティーと存在の枠組みを、ひとりでに知っています。あなたには意識的な心があります。

でも、それは心の「いちばん表層」、の部分にすぎません。あなたは、「それ」、のもっと多くを利用することができるし、
そうすれば、自分のもっと広汎な知識に気づけるようになります。限界をつくる観念や、誤った観念を受け入れることは、
リンゴの木が、自分はスミレだと勘違いするくらい、混濁した状態になることを意味します。リンゴの木は、
スミレの花を生み出すことはできないし、そんなことを考えている、リンゴは、立派なリンゴの木にもなれません。

誤った観念は、あなたの内なる存在の基本的条件に、反しているのです。もし、自分は、物理的な出来事のなすがままだと、
思っているなら、あなたは、喜んで誤った観念を、受け入れていることを意味します。また、現在の経験は、
自分の影響力の及ばない状況で、定められたと考える人も、誤った観念を、歓迎している状態にあるといえます。

あなたは、自分の子ども時代の環境形成に加わっていました。あなたは、自分自身でその境遇を選んだのです。
といっても、ただ無作為に選んだだけで後は、その境遇に翻弄されている、ということではありません。
あなたは、選択するに当たって、自分が乗り越えるべき、チャレンジを設定し、到達すべき目標を据え、
一定の能力を伸ばしたり、会得したり開花させたりするための、経験の枠組みを、築き上げたということなのです。

自分の経験をつくり出す創造力は、誕生時そして、それ以前からずっとそうだったように、いまも、あなたの内部にあります。
ですから、あなたは、今回の人生のために特別なテーマ、つまり一つの状況設定、境遇の選択、をしたかもしれませんが、
その範囲内で、自由に実験したり、創造したり、状況や出来事を、組み換えたりすることができるのです。

人は、それぞれ自分のためにパターンを選び、その範囲内でこの個人的な、リアリティ現実をつくります。
しかし、その領域の中は数知れない、多様な活動と限りない資源に満ちています。内なる自己は、ときめくような
冒険に乗り出し、自らのリアリティ現実を、物理的な状況に変換することを学びます。意識的な心は、
物質的なリアリティ現実と、見事に波長が合っているため、自分がリアリティ現実の中で、知覚するものに目を奪われがちであり、

物理的な現象は、結果というよりも原因なのだと考えそうになります。自己の内奥は、そうではないことを、
常に思い出させようとして、合図を送ります。しかし、意識的な心はあまりにも多くの誤った観念を、受け入れてしまうと、
特に内なる自己を、危険なものと見なすようになると、そういう内奥からのたえまない合図を、締め出してしまいます。

すると意識的な心は、自分より大きくて、支配の及ばないように、見えるリアリティ現実に左右されていると感じます。
そして、意識的な心を包み込んでいた、安心感が失われます。意識的な心が自らの根源にもう一度気づき、
それを利用するための内側の、すばらしい伝達回路とパワーを、自由に操れるようにするためには、
誤った観念を取り除かなくてはなりません。

エゴ自我は、いわば意識的な心の派生物です。意識的な心が、巨大なカメラのようなものだとすれば、その視界と、
フォーカス焦点を、管理するのがエゴ自我の役割です。誰からも干渉されなければ、その人の個性のさまざまな部分が、
表面化し、エゴ自我を形成します。エゴ自我は、驚くべき自発性と、一体感を保ったまま離合集散をくり返します。

エゴ自我とは、世界についてのあなたの、概念を物質的なイメージにしたものです。あなたの自己イメージは、
無意識のものではありません。あなたは、それに完全に気づいています。もっとも、自己イメージに、関するある考えを支持して別の考えを、
拒否することはよくありますが。誤った観念は、結果としてエゴ自我を硬直化させ、意識的な心を一定方向にしか、
使わせないようにし、知覚さえも歪めてしまいます。人はよく、自分の行動パターンを変えてしまう、可能性のある考えを、

意識的に忘れようとします。それらはすでに抱いている、自らを制限する観念と、相容れないからです。日々の中で、
あなたを通り過ぎていく、思いの連なりに耳を傾けてごらんなさい。どんな暗示や、考えを自分に伝えていますか。
それらが、あなたの個人的な経験として、具現化されていることに気づいてください。自らを制限する山ほどの観念が、
善を装い、吟味されずに見過ごされます。そこでは悪を憎むことに、高潔さを感じるかもしれません。

しかし憎しみや悪に注意を、集中していることに気づいたら、あなた自身がそれらをつくり出していることを、
意識しなければなりません。自分の貧しい経済状態を、ひとりよがりに正しいことととらえ、富裕な人々を、
軽蔑の目で見たり、お金は悪いものだと、自分に言い聞かせたりすることが、貧しい状態を強化することもあります。

あるいは、病気の自分を憐れみ、健康な人々を、ひどくうらやんだり自分の状況を嘆いたりすることが、
ますます病気を、長引かせることもあります。限界にこだわっているから、限界を経験するのです。
心の中でイメージを一新しなければなりません。新しいイメージはそのときのあなたの身体感覚とは、
異なっているでしょうが、まさしくそういう領域でこそ変化が、求められているということなのです。

戦争への憎しみが、平和をもたらさないということもその一例です。平和に対する愛だけが、
平和な状態をもたらすのです。意識的な心は相対的に、無力だという考えを受け入れている人々がいます。
そのような人々にとって、わたしの言葉の多くが、そしてあらゆる問題の答えは、意識的な心のすぐ下に、隠されているという考えが、
受け入れがたいもので、あるということを、わたしは知っています。意識的な心は、明らかに「現象」、であり、「もの」、ではありません。
それは、絶えず変化し、エゴ自我によって一点に集中されることもあれば、文字通り際限なく、あちこちの方向に、

振り向けられることもあります。意識的な心は、また外に向かってリアリティ現実を見たり、内に向かって自らの中身を、
観察したりすることもできます。意識活動の中には、多彩なグラデーションや波があります。
それは、あなたが思っているよりもはるかに柔軟なのです。エゴ自我は、自らの観念と一致する外側と、内側のリアリティ現実を、
知覚する方法として、意識的な心をほとんど全部使うことができます。したがって確かな答えを、
公然と手に入れることが、できないということはなく、人は、たいてい信じた活動の道筋に沿って自分を方向づけ、

いまの観念と、対立しそうなマテリアル情報には、あまり心を開こうとしないということです。たとえば、病気に罹るには理由があります。
新たな症状を、呈することなく完全に回復するには、その理由を見つけなければなりません。その病気が気に入らないとしても、
それは、自分自身が決めた進路なのです。それが、必要だと固く信じているあいだ、症状は続くでしょう。
さて、これらは、特定の観念によって引き起こされた結果かもしれません。あるいはともに、抱かれている観念の集合体によって、
引き起こされている場合もあります。あなたは当然、それらの観念を「観念」、としてではなく、「事実」、として受け取っています。

自分のリアリティ現実を自分が、つくり上げているということを、いったん理解したら、自らの観念を検討しはじめる必要があります。
そのためには、意識自身に、その内容を自由に調べさせればいいのです。健康と病気については、後でもっと具体的に話しましょう。
ただ一つ、ここで指摘しておきたいのは、精神分析は、たいてい単なる「かくれんぼ遊び」、にすぎないことがよくあるという点です。

そこで、あなたは、自分の行為とリアリティ現実に、関する責任を常に放棄しつづけ、根本的な原因を、過去という暗い森に、
隠されている心の領域に割り当てます。それから、その秘密探しの仕事を、自分に与えます。それでもあなた方は、
けっして意識的な心の中に、それを探そうとは思わないでしょう。なぜなら、あなた方は、あらゆる深遠な答えは、
ずっと下の方に埋もれていると確信しているし、しかも、意識は役に立たないばかりか、自分をだましてばかりいると、
思っているのですから。そうやって、かくれんぼ遊びをするのです。そんな自分を騙すような枠組みの中では、何とかして、

観念を変えようとしても、あなた方は、過去から適当な出来事を引っ張り出してきて、それを、やり玉に挙げるでしょう。
つまり、本当の原因ではないかもしれない過去の出来事を、まるでそれが原因であるかのように、自分に思わせようとするのです。
そして、本来の問題を引き起こしている観念が、意識的な手の届くところにあるのに、それを見つけようとしなくなってしまいます。

けれども、基本的な観念と、あなたのふるまいの原因は、常にあなたの意識的な心にあったのです。ただあなたが、
「自分の観念は必ずしも現実のリアリティと、イコールではなく、むしろ、リアリティ現実の発端なのだ」、という気づきを持って、
意識的な心の中身を、調べたことがなかっただけです。同時に精神分析では、そのような隠された秘密の源である、「無意識」は、
創造力やインスピレーションの苗床として、当てにならないと信じるように教えられるので、あなたは、自己の内なる部分から、
意識に上ってくるかもしれない援助を受け取れません。

普通、意識的な心の中身を調べるとき、体系化された自分の観念を通して見たり、あるいは、それらを使って見たりしてチェックします。
自分の観念が、必ずしも事実とは限らないと知っていればこそ、あらゆる情報に気づいて意識的に利用できるでしょう。
わたしが言っているのは、いちいち立ち止まって自分の考えを、すっかり調べ上げなさいということではなく、
意識的な心の中身を知らなければ、あなたは充分に自覚できているとは、いえないということです。

そしてもう一つ、強調したいのは、意識的な心は、外側の世界と同様に内なる自己からも、情報を受け取ることができるようになっている、
という事実です。わたしは、考えや感情を抑制するようにとは言っていません。自分が、抱いている考えや感情に気づくようになってほしいのです。
それらが、あなたのリアリティ現実を形づくっていることを、はっきりと理解してください。そして、あなたの求める結果を、
もたらしてくれる考えや、感情に集中するのです。こういうことが、どれも難しいというなら、あなたの物質的な、リアリティ現実を、
あらゆる角度から吟味してごらんなさい。物理的な経験や、環境はあなたの観念が、物質化したものです。あなたがエネルギーに、

あふれていて、健康面でも申し分なく、仕事も順風満帆な上にとても裕福で、そして出会う人の顔にことごとく笑みが見られるなら、
あなたの観念は当然、有益なものだと思っていいでしょう。世界は、いいものであり自分は、みんなに愛されていると感じるなら、
やはりあなたの観念は有益なものと思っていい。しかし、あなたが、健康でなかったり、有意義な仕事や充分な富に恵まれなかったり、
世界に悲しみや悪が、満ちているように思われるなら、自分の観念には、欠点があるのだと思って調査しはじめてください。

集団的なリアリティ現実の特質については、後で論じますが、差し当たり個人的な面について、詳しく述べていきます。
この章でもっとも言いたかったのは、意識的な観念は、とてつもなく重要であるということ、そしてあなたは、自分の気づきの及ばない、
はるか深みに眠る出来事や、原因に左右されているのではない、ということです。この章はこれで終わります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?