醜悪なものから生まれるもの

来月の生きづらさ研究会のテーマの勉強をしようとある国際シンポジウムに行ってきました。
講演の終わりに質疑応答の時間があって、ラストの質問者が「自分と家族との思い」を含めた質問をしたんですよね。すると指名された登壇者がズバッとその思いをぶった切って「なのであなたがそういう風にとらえる必要はない」ということをおっしゃったんです。
会場にはその痛快な返しに笑いが漏れ、そこで会はお開きになりました。

その時私はこう思いました。登壇者の先生は質問者の囚われた思いをアカデミックな立場から切り出すことで質問者の苦悩をわかりやすく解放した、と。だからその行為が優しさに見えたんです。
でもあとでその時のことについてつぶやいている方の反応を見たら「あの場は醜悪だった」と思えてきて、なんかもう腹が立ってきたのでこうして肝心のシンポジウムの内容も書かずにここにこうしてぶちまけてます。

一番イヤだな、と思ったのはあの会場の空気でした。

登壇者のあの時のあの言い方も、いかにも「この場にはそういう部分はいりません、出来事と感情を結びつけるからそうな風に苦しむんです」みたいなの個人感情問答無用切り捨て感があったのですが、それでもどこか厳しさの中に裏返しの優しさ、みたいなものが見えたんですよね。完全に私の解釈ですが。
ただあの会場に漏れた集団の笑いだけは質問者に対するけっこうなプレッシャーになったと思うんです。あ、これこの場では笑わないといけない空気なのかな、とかつらい心情と結びつけて質問してしまった自分が悪いのかな、って思われたかもしれません。
でもあの場の空気も、急にアカデミックな内容から外れた感情の揺さぶりにとまどい、嘲笑と同時に防御反応として出てしまったものかもしれないし、必ずしも馬鹿にする意味だけで出たものではないとも言えるし…

もちろんこれも私の勝手な解釈なので本当はどうか、なんてわからないし考えること自体ムダなのかもしれません。
ただ私は、質問者がどういう気持ちになろうが「その後のフォロー」をきちんとやってほしいと思ったんです。フォローがあるからこそ研究できるわけだし、強い発言もできるし、結果として受け止めることができる。誰かがフォローしてくれていることを忘れて自分のやりたいことをより大きな目的のために、ということで見えなくしてしまってはいけないな、と思いました。

…けっきょくこういう現場に来ても自分は他者の気持ちばっかり考えちゃうんだよなぁ、って。それが良い方に転べばいいんだけど「醜悪だ」って感じる感性も持っておかないと。悪意に気付きにくくなっているというか…それを糾弾することなくフォローにばかりまわっていていいのかな、とか。
あと自分自身でも最近「研究」ということを免罪符に相手の気持ちをドンドン聞き出していくことに躊躇いもなくなっているのに、ちょっとこれはいかんなと思ったりもしたり。

まあバランスなんでしょうけど。

これらのこと引っくるめても、生きづらいなって。
結局私自身も、自分で自分の生きづらさを選択してるなって。
まあ、だからこそ生きづらさ研究会なんてやってるんですよね(笑)
生きづらさってメンドくささでもあるよなって最近よく思うんです。そういうメンドくささから逃れたくて死にたくなる、っていうのはよくわかります。

「日々生きていて出てくるメンドくささをどう許容するかを考える」といあのが生きづらさ研究会だ、とも言えますね。

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