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15) 高知「四国カルスト」三魂之塔への再訪

愛媛〜高知の県境【四国カルスト】・・・澄んだ空気と、高く広がる空

その牧歌的な風景の南側の山麓は、高知県、津野町、芳生野(よしうの)

3人の若者が、偵察機【彩雲】とともに、命を散らした、ここに、現地のみなさんによって、おおきな慰霊碑が、建立されています。(ちょうど50年前)

三魂之塔

四国カルストを、バイクで横断〜
そんな楽しい予定も・・・8月11日の現地周辺は、けっこうな、土砂降りで☔️!

記者さん、撮影班のクルマに便乗しての「再訪」でしたが(こちら放送動画です。
10月15日まで視聴可能)

1945(昭和20)年3月19日・・・墜落のようすを、頭上に、見上げていた方々(現在、90歳)の証言は、驚きの連続

戦時記録や、布告、戦後それらを孫引き、加筆されたテキストなどからは、うかがい知れなかった「事実」が、浮かんできました。

3人の若者が乗った偵察機、その墜落の様子については、
「敵の大群の中に自ら突入して敵2機を
 墜落させ・・・」(戦記)


あるいは、
「敵編群に突入必殺の体当たり攻撃を敢行
 克く敵二機を粉砕撃墜」(布告)


つまり【敵2機と差し違えた】と、英雄的な行為として、これまで、伝えられてきたわけですが、わたしの直観的仮説では・・・
「そのとき、本当に、アメリカ機を2機も、
 体当たりして、道連れにしたのか?」

・・・という疑問を、持ち続けていたところ、

今回の再訪にあたり、1945(昭和20)年、3月19日
この村に墜落した様子を、12歳のとき、目撃した、おふたりに、聴いてみると、

・空をおおう黒々としたアメリカ機の大編隊
 そこから逃れるように、ものすごい速度で
 飛行機が、先駆けて来た

・それが、山肌に墜落する前に、
 空中分解して「3つ」に分かれた。

・墜落したのは「1機」だけで間違いない。

・最初、アメリカ機が墜落したかと思い
 大人たちは猟銃を携え、その地点に急行

・それは、日本の機体であり、
 墜落地点で、3人の遺体を確認

・集落の寺院で、荼毘にふし、
 3日後、松山の基地から訪ねて来た、
 343航空隊の隊員に、遺骨を渡す。


という証言を得て、巷間伝えられてきた【敵2機と差し違えた】・・・という報告は、「3つ」に空中分解した偵察機「彩雲」の状況でもって、誤認したものか、と思われます。(実際、この日、アメリカ側には、機体の被害報告は確認されない)

つまり、3人の飛行機が、アメリカ側に被害を与えた事実はなく、偵察という任務を、全うした、と。

これまで、この探求を進めさせた動機のひとつは「そのとき、本当に、アメリカ機を2機も、体当たりして、道連れにしたのか?」という疑問でしたが、それが、今回、90歳になる、おふたりの目撃証言から、あらたな光が当てられ、「再訪」の意味と、「聴くこと」の大切さを、あらためて、感じています。

・・・それと、もうひとつ!

これまた新しい発見として、なんと、偵察機【彩雲】のパーツが、
(翼か、胴体か・・・外装らしい鉄板)

これが、現地に伝わっており、なんでも、つい昨年、保管されてたのが、見い出され、現在、展示準備中とのこと

翼部の外装ではないか?

慰霊碑の横に、偵察機の遺物として、「脚部パーツ」が置かれているのは、よく知られていますが、今回、はじめて、外装パーツが見つかり、もう、たいへん、驚きました。

【アメリカ機を道連れにしていない】
 という証言が得られたことには、偵察という任務を果たした・・・それ以上の任務でない殺傷には加担していない・・・
 この事実には「希望」を、感じます。

「あのときは、仕方なかった」という、時代文脈でいえば「英雄の死」ですが、
いや、その前提である「あのときは、仕方なかった」・・・を、問い直すとき、80年近く、語られてきた「アメリカ機を道連れ」という、過大な戦果(加害の嫌疑)から、3人の若者たちは、ようやく開放され、「等身大の死」のもと、安らぎは訪れる。

 彼らの無念は、英雄的な死によって、あがなわれるよりも、山間の沈黙のなかに不動する慰霊碑・・・

 それは、事実としての死を、頭上に目撃していた、津野町の皆さんたちの【ボランタリーなチカラ】の結集であり、3人が、それぞれ夢みた希望は、事実を知り、語りつぐ営みとともに、この先も、伝わるように、おもう。

慰霊碑の建立に際しては、50年前の詳細な【記録綴】が残されており、発起人たちが集った結成の日付は、【昭和48年8月15日 平和記念日・・・】

石碑の建立についての詳細な記録

そうか、この日は、終戦の日と、一般に、言われるところ、ここでは、8/15は、【平和記念日】か・・・素晴らしい。

ちょうど50年後の同月同日に、放送される番組に、協力できるとは、感慨深いものです・・・(実は、わたしも、同年生まれでして)

8月15日は【平和記念日】

と言うわけで、わたしの【仮説直観】は、3人の若者たちを
「大きな物語」から解放してのち、すでに、次の問いに、向かってまして

 四国カルストの慰霊碑・・・その情熱の建立プロセス!

土佐の山間、津野のみなさん、平和を希求する趣意書をまとめ、広く寄付を募り、【ボランティア】で地元の自然石を、組み上げた碑(いしぶみ)
その詳細な【記録綴】をめくると、行政の予算で、業者に頼み、通いやすいところに、建てたのでない、その情熱が・・・すごい!
(なんだろう、村の【一揆】的な凄みあり)

この記録に書かれたこと、(書かれなかったことからも)
読み解ける内容、たくさんありまして、この探求、まだまだ【反復】続きます〜

 歴史認識とは、後ろ向きでなく、
 前向きにベクトルはたらかせば、
 遺された事物にかかわった群像は
 過去の人たちでなく【同時代人】ですね。

8月15日は、大きな物語をつむいだ、343司令官【源田実】の忌日・・・
(平成元年、松山、南高井病院で死去)

また、丸山眞男の命日でもあり、事象の内に【執拗低音】を聴き取るべく、このテーマ、ライフワークのひとつとして、前向きに反復、執拗に追求していく限り、探求は果てなく、彩雲が駆けた四国カルストの空のように、どこまでも、広がっていきます〜

四国カルストから高知側の墜落地点を望む


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