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伊丹万作と永井叔〜交響する交遊圏

「明教」第53号(松山中学・松山東高同窓会誌、2023年3月発行)に寄稿
1992年卒 影浦弘司
(寛恕文中敬称略。ゴシックは同窓生)

文芸部と演劇部をハシゴしていたので、卒業後の90年代前半、友人たちと芝居づくりを楽しんだ。最後の公演は、伊藤大輔の連鎖劇をふまえた悲喜劇に仕立てたが、もうひとりの映画人・伊丹万作を中心に、大正末/昭和初年の松山、おでん屋「瓢太郎」に集った青春群像も魅力的で、どちらから舞台化するか、そうとう悩んだ。 前作が、満洲の料理屋にエノケンをかたる慰問一座がやってくる設定で、飲食店が舞台のコメディ続きもどうかと、まずは伊藤のパッション、お次は、伊丹のユーモアでと、構想をめぐらした日々から、30年・・・

最近、洲之内徹のエッセイを読む中、この宿題を思い出し、中村草田男重松鶴之助など、大正デモクラシー期に育まれた若き才能たちの軌跡を追うと、00年代以降、久万美術館(高木貞重・館長)による展覧会、出版を通じ、近年も広く知られる彼らの交遊だが、その青春群像に、社会運動の面から迫る敷村寛治の好著『風の碑 白川晴一とその友人たち』や、同氏らの取材が精緻を極める『季刊えひめ』(坂本忠士・編集人)の特集「歿後30年 追悼 伊丹万作」からは、旧制中学の同窓生たちが、濃密に結んだ友情のかたち、その生成プロセスについて、多くを教えられる。

『季刊えひめ』の特集「歿後30年 追悼 伊丹万作」

そんな先行研究から、事実の間を読み解くと、いまだ類書では語られぬ、伊丹たちの交遊の広がりが見い出せる。

たとえば、詩人・永井叔・・・「全身詩楽人」と呼ぶべきか、マンドリンを弾き、平和を訴え、ハンセン病施設への訪問など各地を行脚した姿は、同時代のキーパーソンたちを縦横にネットワークする。元祖ヒッピーの劇的な生涯は、全6冊の自叙伝に詳しく、詩文に限らず、福祉関係での交遊、キリスト教の影響(乗松雅休)など、多方面からの評価がまたれる(ガリ版刷りの自家製本は入手困難、その復刻が端緒となろう)。

全6冊の自叙伝は、手作り。その内、2冊は出版化

その自伝中、1938(昭和13)年5月3日に、伊丹との交遊がみとめられる。

共通の友・吉野一雄(のち、常盤学舎舎監)が、伊方の農業学校から生徒たちを引率、上京の際の3人のやりとり。

永井「もうまあ、大空の辻楽人が映画になってもエエ頃じゃが、お前とこで雇わんか」
伊丹(ニヤニヤ)
吉野「叔さん、おまい、相変わらず心臓が強いのう」

この(ニヤニヤ)だけみれば、永井の押しの強さを持て余すような伊丹だが、この年、肺結核を患い、病臥生活がはじまる。モラリスト伊丹の観察眼は、同じ病で夭折した親友、野田実を看取った経験からも、おそらく自分の将来(もはや監督業はできないとか、自らの死について)を予期したに違いない。すると、この含み笑いは、友人たちの前で隠さずみせる含羞など、伊丹の死生観を表したものとして、映じてくる。

こうして記録を読み解けば、
「伊藤や伊丹たちが集った回覧誌【楽天】・・・その行方は?」
「野田が作曲した【オペラ】とは?」
「伊丹が語る【友情の絶対値論】と、渡部政和先生」
「おでん屋の屋号【瓢太郎】その命名の由来?」など、
大正末/昭和初年から、およそ100年・・・事実としては応える者のない問いに挑むのは、そろそろフィクションがもつ「想像力」の出番だ。30年前、友人たちとの芝居づくりは、そんな創作のチカラを思い起こさせるとともに、この学び舎の精神風土は、正岡子規以降、伊丹たちから連綿と、その後も、いつに変わらぬ「友情」を育み続けている。
(以上、本文1200文字)

大江健三郎・編による伊丹のエッセイ集

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