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バイオアート3 〜偶発性と進化

 近年、外国人観光客に人気のプランは、体験型だと言われている。単に観光地を巡るツアーではなく、例えば殺陣を体験したり、甲冑を着たり、舞妓の格好をして写真を撮ったりするプランが人気なのだそうだ。

 そして体験型の鑑賞方式はアートの鑑賞形態についても当てはまり、私が過去に足を運んだ展覧会の中でも、実際の仏寺の一間を再現した状態で襖絵や屏風を鑑賞させる形式やウィーンの某会館の壁画を再現し、その壁画のモチーフとなった音楽とともに鑑賞させる形式などに遭遇した。

 このような体験や経験の形での鑑賞は、従来の対象物をただ見たり聞いたりするという身体の中の一感覚で鑑賞する形で行うより、身体全体の感覚を総動員しての鑑賞となるため、その結果、対象物を産んだ時代背景や作者の置かれていた心理状態に自分が存在したかのような想像力を巡らせることができるので、対象物だけでなく背景の時代や文化、生活自体を鑑賞させるという効果が生まれるのではないだろうか。そして深く鑑賞者の記憶にも刻まれるのも、一つの重要な副次的効果であると言える。

 さて、バイオアートの分野においても、体験型の鑑賞を前提として作品を創り出すアーティストがいる。今回紹介したいのは、アーウィン・ドリーセンスとマリア・フェルスタッペンの作品である。

 彼らが大切にするのは、科学によりコントロールや設計されたシステムとは相容れない、偶発性に裏打ちされた進化の姿である。独創的な形を果てしなく生み出す自然への畏敬の念が根底にはある。

 例えば「Top-down Bottom-up(トップダウン・ボトムアップ)」という作品がある。これは、天井から蜜蝋を落とす装置を使い、落ちた蜜蝋がランダムに積み上がって石筍のような形状のオブジェが出来上がる。その過程自体を体験させるアート作品である。オブジェの形状には特に意味はなく、その過程に身を置かせることで、果てしない時間の流れの中での偶発性と、その偶発的な現象の結果を一つの美と捉えざるを得ない境地に至らしめる、それが進化という自己浄化の本質だということを訴えているバイオアート作品である。

 ふと思う。偶然だと思った出来事が、実は偶然ではなかったのではないかと思うその瞬間。それを運命と私達が呼ぶのは、想像を超えた壮大な時間の中で生命が独自の進化を遂げ、結果、現在の私達のような形でここに存在することの一つの必然なのではないだろうか。脈々と続いてきた命の進化の連鎖が、私達の潜在意識に、偶発性への崇敬と偶発的な現象へ生命体が必死に適応するために身につけた自己組織化の本能への賛美を刷り込んできたからなのではないだろうか、と。

 こんな考えに及ぶのも、体験型だからこそである。鑑賞者自身に思考させる。それが体験型方式の真の狙いであろう。ぜひ一度「体験」してみて欲しい。

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