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教育と教養と豊かさについて

 テレビ朝日系の「刑事7人」という連続ドラマの8月7日の放送回のテーマは、教育だった。内容の概要は、教育の限界を目の当たりにしてきた教師が、自分の教え子の家庭が抱える家庭内暴力や借金などの問題に関して、主たる原因となっている人物を、これまた自分の教え子の中で暴力団員や犯罪歴のある人間となった者を使って殺させるという衝撃的なものだった。一言でいうと、教育に携わる者が、教育の限界を目の当たりにして、極端な浄化行動に出てしまうというストーリーである。

 ここでいう教育の限界とは、人を教え導くことの限界である。ただ、人を教え導くと言っても、他にも寺での説法だったり、政治的な活動だったり、様々なものがある。しかし、教育が特別なのは、義務教育という制度で皆が等しく受ける権利として保障されているという点にある。だからこそ、他の教え導く手法に携わる者に比べて、教育に携わる者自身は特別の責任感と特権を手にしたかのような感覚を抱いてしまうのは無理もない。このことが、まるで神のみに許されるかのような浄化行動に出てしまうドラマの展開の根拠でもあった。しかし、このような特権的な感覚は、ただの錯覚にすぎない。なぜならば、教え導くという行為の先には、その教えを咀嚼して自ら行動に移すという生徒側の、主体的な行動が予定されているからである。この生徒側の主体的な行動が予定されているという点に、教育の、人を教え導くことの根源的な限界が内在しているといえる。

 さて、この限界は、限界と言ってしまえば寂しいものだが、ここで一つ考えてみたいのは、そもそも教育における「教え導く」手法とはどのような方法なのか、その可能性についてである。

 端的にいうと、教育とは教養を身につけさせることであると考えられる。教養という言葉もまた多義で解釈が色々と分かれるところだと思うが、教養とは、豊かさを生むための技術ではないだろうか。豊かさとは多様性と同義であり、様々な物の見方や考え方ができるような柔軟性のことである。

 例えば、小説家の田辺聖子さんのエッセーで、夫婦円満の秘訣、男と女が上手くやっていくためにはどうしたらいいかというテーマについて書かれたものがある。田辺さんに言わせると、上手くやっていくための秘訣は、「相手に気持ちを伝えるための言葉をどれだけたくさん知っているか」ということなのだという。ただ言葉数をたくさん知っていればいいということでもなく、同じ言葉でもどのような文脈で使うか、どんなトーンで言うか、ただ相槌を打つような感じで言うのか、目と目を合わせて言うのか。そういった様々な用い方を、相手との信頼関係や置かれている状況に応じて使い分けていける能力が必要であり、そのような能力はつまりは「教養」であるという。喧嘩になりそうな時に、それをひょいっと笑いに変えられるような能力。そんな風に、田辺さんは教養が生む豊かさのことをユーモアに近い形のものとして捉えられていた。

 こうした日常生活以外にも、ビジネスにおいても教養は底力を発揮する。例えばある新製品を開発していて、市場に出した際のメリットとリスクを検討するような場合に、社員全員が同じ視点で同じメリットとリスクしか想定できなかったら、問題である。三人寄れば文殊の知恵というように、人がそれぞれ皆違った視点での検討を行い、それを持ち寄って集約するからよりよいものが作られるのである。教養とは、そういった多様な視点に立つことで可能になる多様な可能性への気付きのことであり、さらに言えば、このような複数人の視点を一人の人間ができる限り持てるようにすることが「教養」ということになるのではないだろうか。

 ここまでみてくると、次に教養とはどうしたら身につくのかという問いにぶつかる。この問いは、教育が教養を身に付けさせることと定義したことから、教育のあり方についての問いでもある。

 当然だが、先の田辺さんのエッセーの例を見ればわかるように、多様な視点に立つためには、そもそもたくさんのことを知る必要がある。だから学校での勉強は、知ることに重点が置かれる。ただ、「知る」だけで終わってしまっては、本末転倒である。

 よく丸暗記が得意とか、それで学歴が高いので頭が良いとか、そのような評価を聞くが、それはそれで素晴らしいことかもしれないけれど、残念ながら、そのことだけでは教養のある人間とは言えない。人生を生き抜くための豊かさは、知識量があるというだけでは生み出せないだろう。そもそも知識量だけならば、教科書や本を調べればいいだけだし、データベースやそれを搭載したAIに敵うわけがないのだ。そうなってくると、「知る」という段階は、通常の思考が陥りやすいパターンや新しい可能性が眠っているかもしれない箇所を見つけるために、膨大な数の先人たちの反省の歴史を知るという段階と位置づけることができるのではないか。

 その後、生徒は日々自身の時間を生きながら、実践を重ねていく。実践とは、一つの考え方だけに縛られないで、壁にぶつかったらまた別の考え方や見方に立ち、新しい可能性を見つけて行くこと、キツいと思うようなことや哀しいことをユーモアに変えていけるような底力を付けていくことである。すぐにできるようなことではないが、幸いなことに人生は長く、試行錯誤していくための時間はたっぷりある。

 豊かさとは、人に与えてもらうものではない。自分が生み出していくものである。この点を教えるのが、教育の神髄ではないだろうか。そして実践していく段階の途中で迷ったとき、自分の原点を示してくれる信頼できる誰かとしてそこにいてくれる。それが恩師であり、教師というものではないだろうか。

 教育の内在的限界は、限界ではない。生徒側の自由な選択を尊重した、可能性あふれる一つの人間関係なのである。この人間関係も、自分の人生に豊かさを与えてくれるものの一つである。たとえ、学生時代にはそうは思えなかったとしても、教養を身につけた暁にはきっとそう思えるに違いない。

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