殿上人泥を知らず

「テイラー展開の定義言えないやつ理学部失格」
「じゃあグリニャール試薬の作り方言ってみろ」

 という邪悪なマウンティングをしたことがあった。大学一回生のころである。しかし、この長い人生における数学屋との付き合いを象徴する出来事であるように思う。

 べつに好きとか嫌いとかではない。彼らのほとんどは悪意がなく単に数学が好きなだけだ。しかしどうも数学以外のことに疎い。
 まあそれだけならいいのだけど、数学的に推論すると妥当な結論が得られると思いがちなところが難しい。というのも、本人は論理的に話しているつもりだから反証を通してくれないのである。

 これが典型的に表れるのは掛け算論争である。例えば一人2本の鉛筆を3人に配るという問題を2×3と表記するか3×2と表記するか、そして主に後者の表記を否定する試みと問題ないと主張する試みの対立を指す。

 この問題を敢えて説明しよう。これは理論屋が実務屋に対してきれいごとをなげつけているだけの理不尽案件である。だから、教育に一家言ある人はできれば立ち入らないでほしいし、数学に興味がある人はなおさら出て行っていただきたい。
 端緒は簡単である。自然数同士の掛け算はご存知の通り可換であるが、小学校では教育上の都合から上記の問題について2×3でない答えを否定する。なぜ数学的に問題のない可換な表式を認めないのか? その一点張りで、剰え小学校教師の人格否定を行う悪辣な数学者がこの日本に目いっぱい存在する。あまりに醜いので無関係な人は立ち入らないでほしい。赦してあげてほしい。彼らは何をしているのか分かっていないのです。
 簡単な話だ。数学者のどれほどが小学生に集団授業をしたことがあるか。その想像力の欠如たるや。

 掛け算があまりにも象徴的であるが、同様の現象は割と頻繁に発生する。理論屋は実務側の「そうは言ってもですね」を決して理解しない。殿上人は泥を知らないので「土を踏まずに田植えができるのでは?」と大変気軽に発する。こういうのを端から捕まえて頭から田んぼに突っ込みたいのだが、本人は殿上人というか理論的洗練を至上とするので一切地面に降りてこないのである。
 それが自らを貴族であると自認していればまだよかろうもの、数学はどうしても様々な分野で使われているのでそれらも自らのテリトリーであると誤認する。しかも理論屋だから理論的延長で泥の上でも走り回るのだ。泥をかぶらずに。

「井の中の蛙大海を知らず」というアレが大嫌いなので、新しい慣用句をここで提唱したい。「殿上人泥を知らず」である。もちろん「ただ和歌の深さを知る」のだが、これは一笑に付せるという大きな利点がある。

 私自身が泥被りみたいな仕事しかしていないので、数学的にどうこう言っている奴は基本的に世間知らずだと思って接しているが、筋論に強いのが困る。実務家は口げんかに滅法弱いのである。

「理論的にはそうだが現実は違う」
「じゃあそれを証明しろ、理論的に」
「だから現実って言ってるだろ。頭突っ込むぞ」

 というやりとりはよくやる。実際に頭突っ込まないとわからないことは山ほどあるのだが、それを理論的に否定する。なんで? もし理論屋で泥を見たければ体験コースをご用意しているので一回頭からつっこんで差し上げます。ご連絡ください。

 しかしこの、自分の分野について先端であれば世界の先端であるという恥ずかしい勘違いをしているのは、理系でも一部の連中だけのような気がする。グリニャール試薬って知ってる? たぶん何回やっても禁水反応の意味が解らず空気中の水分で反応が進まないんじゃないかしら。
「禁水とはいいますが具体的に湿度何パーセントからですか」
という返答をされたことあって呆れた。なんていうか、その質問がナンセンスであることを理解していない。馬鹿野郎アルゴンで置換するんだよ。

 どうも泥をかぶらない人間が偉いらしい。給料も高いし休みも多い。そしてみんな偉そうにする。そういう社会構造なのである。だとしたら、できるだけ泥をかぶらない職域に就こうというのは当然ではないか。その結果、泥を見たことがないエリートというのが誕生してしまう。

 さて、この問題は「院卒メーカー研究職の工場研修」という形で解消を試みられている。院卒メーカー研究職は現場を知らない。だから工場というものはモクモクと煙さえ出していれば稼働すると誤認しているクズが一定割合で発生する。そういうのを修正する必要がある。ちなみにフランスはもっと階級格差がひどく。エコールポリテクニクを出ると20代で工場長になる。日本のほうが幾分かマシかもしれない!

 別に現場が偉いというつもりはないのだが、理論屋は「現場は知らないが推定できる」と本気で思っているのが救えない。頭の中ではそうなのだろうが、実際には違う。当たり前だろう。

 それで自分の研究室のことになると「そうだ、当たり馬券だけを買えば確実にもうかるのでは?」といって文科省を揶揄するのだが、実にその数学の使われている現場を想像するときの貧相さたるや、当たり馬券だけ買えと主張する。

 これは想像力の欠如という一言で片づけてほしくない。ヒトは経験したことがないものを想像することができないのである。この謙虚さを持つだけで幾人の百姓が無用な諍いから免れようか。

 この「自分が経験したことがないから、自分にはわからないだろう」という態度は人間と当たるときの態度に如実に表れる。
 簡単な例が男と女である。男だから女の感覚はわかんないだろうな、という謙虚さはまあまあ持つことができる。ところが「同じ男だからあいつもこんなもんやろ」という推定は大抵めちゃくちゃ間違っている。全然違う。
 自分が経験したことのない痛みというものが「同じ男で、似たような仕事してるし、こんなもんやろ」と片づけられる。この経験をしたことがあるだろうか?(入れ子構造になっている) 例えば、実に男性側が強制性交される恐ろしさとか。想像もしたことないでしょ?

 まあこういう「痛み」をいちいち感じていると、あまりに他人が想像以上の痛みを抱えて生きているので過敏症か不感症かどちらかになる。なお過敏症の人間はたぶんメンタルをやられる。
 弁護士や医師の友人が何人かいるのだが、酒と女と車の話しかしない。なんなら報酬にドライである。当たり前だ。守秘義務以前に、そんな生命と人生の瀬戸際にしか接しない職種が仕事の話をしようものなら、不感症にでもならざるを得ない。そうでもないと自分の身が守れないのだ。その意味で、彼ら彼女らの「冷たさ」にも一定の理解を示したくなる。

 これを殿上人だから泥被ったことないなどと揶揄できようか? 彼らは泥被りのエリートである。この「殿上人泥を知らず」という言葉を振りかざして適用条件もよくわからず振り回すのは愚の骨頂である。自分には相手のことはわからない、という前提を持つことが大事なのではないか。わかったとか、お前そういうやつだもんなとか、わかったふりをするのは傲慢である。ただ「よくわかんないけど大変なんだろうね」と言えばいいだけだ。理解をしたければ、まず相手の話をただ聴くというのが基本である。それをやってから感想を述べればよいのではないか。

 実際、他人がどのような苦労をしているのかについて想像することはあまりに負担が過ぎる。しかし解った気になってはいけないという戒めは持っておきたい。このあたりが、人間的「優しさ」のちょうどいい塩梅であろうと思う。しゃべりたくなったらぐっとこらえる。この我慢ひとつで一人救えるかもしれない。

 それでも私のことを解ったと主張するんでしょうね。

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