月旦と香辛料

 先日、カレーを振る舞った。
 料理には長けている方だと自認しているが、辛いものが好きな人間と苦手な人間の両方がいる食卓に出すカレーとなると少々思案する。とはいえカレーであることが幸いした。ちょっとしたコツがある。

 カレースパイスは4種類が最も辛く、それ以上に加えるほど甘くなる。

 カレースパイスの基本4種といえば、クミン・コリアンダー・ターメリック、そしてチリパウダーである。それだけあればいわゆるカレーは成立するのだ。ところがこれはあまりにも刺激が強い。普段口にするカレーというのは、実に20種類近いスパイスが含まれているのが一般的である。

 辛いカレーに対する処方箋としては様々なものを溶け込ませれば足りる。今回は特に適切なスパイスを選んで足したわけではないが(調理台に常備されていることに気づかなかったのである)やりようとしては甘く円くなるものを目一杯に詰め込んだ。
 産地を選んだ玉ねぎをみじん切りにして飴色になるまで一時間以上炒め続けたもの。
 じゃがいもの半分を敢えて粉みじんに切り刻んで溶け込ませたもの。
 その他円くなる具材と諸々の隠し味。
 結果として、ホットな感覚、すなわち身体が芯から熱くなってじんわりと汗をかく快感は保ったままに、口当たりはまろやかで、まるで子供向けに調合された超甘口のルーで作ったかのような錯覚に陥る。これがたまらなくいい。カレーとは何杯おかわりしたくなるかである。

 これが許されるのはカレーだからである。なにしろカレーである。失敗のしようがない(この点における公然の反論は一切許可しない)。たいてい何を入れてもカレーになるし、カレーとして認識される。そしてカレーと思われているうちは十分に美味しい。
 おおよそ毒物でないもの、食べ物として認識されているものであれば何だって受け入れてくれる。それがカレーである。

 ところでスパイスの数だけでいうと直観的には多いほど辛くなりそうだが、実際にはスパイスが多いほど辛さのとげが丸まって食べやすくなるのである。もちろん唐辛子1種類が一番辛いのは当然なのだが、日本人の言うカレーの体をなさない(インド人の言うカレーとなるとまた定義が異なるので今は論じない)。
 化学的・味覚的な理由はよくわからない。私が直観的に知っているというだけに過ぎない。ただひとつ思うところがあるとすれば、スパイスのような刺激物は互いに喧嘩するのではなく、刺激という一点において調和的に振る舞うのではないか、という仮説である。

 スパイスという概念は西洋医学的な化学物質とは異なる。どちらかというと東洋医学的な漢方薬に近い。西洋的に言えば出された時点で混沌とした混ぜものである。しかし東洋的にはすでに完成しているのである。
 その上で、さらに様々なスパイスを混ぜて一包を調合する。漢方薬とはそういうものだし、たぶん原義に近いカレーもやはりそういうものなのだと私は思う。

 西洋的な化学物質の概念はシンプルで切れ味がある。根本原因を一点に説明する強さもある。ただそれは強さと切れ味故に勘違いのもとでもある。

 例えば言語というものを取り上げたとき、これは西洋的なのか東洋的なのか、という問いを立ててみよう。
 私は多分に東洋的であると感じている。一つの単語が内包する成分は多様すぎて、その単語を整然と、または混然と並べたものはまた、同じ単語を用いてもその調合次第でいくらでも意味が変わりうるだろう。
 同じ言葉でもそれを処方される人間の体質によって結果が変わるところもまた東洋的である。同じ言葉を告げても、おそらく人によっては別の反応をし、そして別の感想を覚えるはずだ。

 例えば……これは自慢になってしまうが、私の note の記事を読んで「コンソメスープのようだ」と評した人がいた。
 これ以上の称賛はない。
 フランス語はご多分に漏れず多義語の世界である。しかし consommé の原義はひとつ、「完成している」である。私にとってのコンソメスープは昨今発売しているキューブ型に代表された手軽さのイメージではなく、高級料理店で出されるような、牛と豚と野菜の旨みが凝縮されていて、かつ一点の濁りのない澄み切ったスープであり、それを看板代わりに客に出せるほど努力をした料理人の熟年の積み重ねそのものである。
 そういうイメージを抱くのは私だけかもしれないし、学生の頃にフランス語を取っていれば同じように感じるのかもしれない。ただ単にコンソメスープと発した本人の意図を外れて私が過大に読み取って浮かれ上がってしまっただけのことである。

 やはり言語に期待する作用は西洋的というよりは東洋的な混沌の中にある気がしてしまう。最初から混ぜものであって、それで成立している。そしてその組み合わせを常用していながら、その効果について服薬したものの体質に大きく依存するものである。ひとつの単語がひとつの意味しか持たない世界ももちろんあり、それは主に学術的な文脈に入ってしまうが、いまは日常的な言語について述べていきたい。普段から母国語を辞書的意味に即して遣っているものはどれほどいるだろうか? 実際の処、そのイメージが先行して言葉になっているというほうが実態にあっているのではないか。

 これが最も効くのが月旦評である。物品に対して使えば品定め、人物に対して用いるなら人物評を指す。
 同じ単語を用いて同じように表現しているはずが、実際に指しているものは若干ぼやけている。それが月旦評の面白さでもあり、怖さでもある。

 スパイスは基本4種が最も辛い。同様に人物評をするにも少ない単語で評すれば鋭い指摘になり、長々と評していれば円やかになる。
 単にそれだけだ。だがこれを知っていると月旦評が面白くなる。鋭い指摘をしたければ多くを語らず、一単語で済ませるのが良い。それはなんでもいいのだ。別に凶暴だとか恐ろしいやつだとか単語ひとつに怖さをもたせる必要は一切ない。例えば、ただ一言「実直である」とだけ評すれば、まるで実直そのものの人間であるかのように錯覚する。それでいて、実直という単語が表す射程を離れて想像が膨らんでいく。
 その単語はなんであってもよい。ただ一言で人物を表することそのものに強さがある。

 想像に過ぎないが、原義の月旦評が恐れられたのはその短さではないか。wikipediaからの引用で申し訳ないが、

許劭の曹操に対する論評は、「治世之能臣 亂世之奸雄」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%97%A6%E8%A9%95

 直訳すると「平時の名臣、乱世の奸雄」。これほど怖い人物評はない。
 評価するほうもされるほうも緊張が走る。平和なときは有能だが乱世ではずる賢い。まるでスパイス4種そのものに見えてくる鋭さである。

 何よりかんたんである。一言、自分の中での印象をスパッと言い切ってしまえばいい。「あいつは優しいやつだよ……」というだけでも十分だ。一言目にそれが出てきてそれで終わりなんて、どんだけ優しいやつなんだということになる。「賢いやつだ」でも同じようになる。「美しい」といえば大変美麗な人間であることが印象付けられる。

 しかし鋭さが必要とされる場面ばかりではないだろう。実際「あの人は美しい」と一言で終わらせられるような身近な人間が人気女優以外にいるとすれば相当なものである。ほとんどの人間は一言で切れるほどに特徴が際立っているわけではない。単純じゃない、のではない。
 そういう場合にどうするかというと、これまたかんたんである。言葉を長く連ねるだけでいい。
 意外にも、同じような言葉をずっと続けていると、その意味が強調されるというよりはだんだんと意味が弱まっていく。褒めているようでも、けなしているようでも、同様に最初の鋭さを失わせる方向に進むのだ。

 かんたんである。「あいつは優しくて、思いやりがあって、柔和で、争いごとを好まない……」と連ねてみてほしい。そのうち何も意味しなくなる。
 これは無意味なテクニックにみえるかもしれないが、大変有意義である。すなわち「あのひとってどんなひと?」と訊かれたときにその人のことを対して識らないという場合の責任逃れに使える。よく識らない、と言いながら適当な言葉を連ねていけば何となく人物評になっていくのだ。そして受け手が「人間とは複雑なもの」と誤認していれば、その文章の長さの分だけ人物評に意味を見出していく。

 もちろん明確な意図をもって言葉を選び、的確に積み重ねていくのであれば長いほうが正確という鋭利さを持ちうるのだが、これは選ぶ単語ひとつひとつが当的でなければ意味がない。的はずれな評となりうる単語が混じれば、それはコンソメのアクでしかない。そんなものは取り除かなければ濁るだけだ。澄んだスープを完成させようとすれば評する相手の成分をきちんと言い当てる必要がある。

 だとすれば、人物評は三つにひとつである。
 彼の人物像に自信があるなら的確な言葉を連ねて長く。
 彼の人物像を鋭く言い当てたければ一言で。
 よく識らないのであれば適当に長々と。

 これは何でもそうである。宝石の美しさでも推しのエモさでもなんでもいいのだが、評するという場面において長ければいいというわけではない。
 ごまかしたければ長く、素直に伝えたければ一言で十分なのだ。短いことを恥じる必要はない。むしろ長々とした評価には欺瞞が混じる。かんたんにコンソメにはならない。

 なにかの感想を伝えるときに活用してほしい。


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