好きな季節がくる

 好きな季節はいつか。
 そう問われたとき、わたしは秋と冬の境目と答えることにしている

 秋と冬の境目など見えるのだろうか。
 そもそも秋は死んだので信じられる人はそう多くもあるまい。だが明確に存在する。

 11月の末頃、低気圧に伴って一本の寒冷前線が日本を通過する。きっと明日は冷たい雨が降って、その後凍えるような北風が吹くのだ。
 この冬の予感がする瞬間こそ秋と冬の境目である。
 それでもまだまだ秋は終わらない。嵐山の紅葉などこれからが本番である。風は冷たくなり、それでも陽射しはまだ温かい。雪も降らず、身を打つ雨が妙に沁みる季節。まだ晩秋と言っていい。
 この秋と冬の境目が最も秋らしい。いよいよ冬篭りの準備をしなければとセーターを取り出す頃合いである。

 前にも書いたが、秋とは感性である。
 紅葉が秋なのでもなく、穏やかな気温が秋なのでもない。秋とは見つけるものであり、見出すものであり、そして秋らしいことをすることで作り出すものでもある。
 9月の末に出かけるときには半袖か長袖か悩み、10月になって寝る前には毛布を重ねるか悩み、11月になれば厚手のコートを着るか悩む。
 この暑い時期から寒い時期への移ろいゆく季節、その季節の流れを感じ取り、季節に合わせた人の営みにまた季節を見出す。これが秋なのだ。
 昔は焚き火をしつつ芋を焼いたり、菊を愛でたりしたものだろう。そのような行事は確かに感性のないものにも等しく秋だと認識させる機能があった。それが喪われて久しい。
 仕方がない。人は教育がなければ快か不快かしか感じることができない。その快不快に名前をつけて尤もらしい大義名分をつけるようなハラハラした社会活動が蔓延している世の中では、やはり季節を覚えるより先に『令和ちゃんの気象操作が下手』などという揶揄に変わるのだろう。
 
 この時期を楽しむというのはとても難しいのだ。しかし一度目を向けることができれば、現象としてはただ平均気温が下がっていくだけの3ヶ月をまるまる楽しむことができる。
 わたしたちはずっとその移ろいを楽しんできた。自然に親しむとは、生物多様性や二酸化炭素について考えることではない。身近にある、その肌に触れる空気を細やかに察し、そして驚きをもって自らに取り込んでゆくことなのである。

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