今月の言の葉の庭 令和三年文月

前言

 前言は読まれましたか? ご承知の上でお読みください。
 以下、なんでそんなこといままで気づかなかったのかという指摘はあまり当たらない。だって気づかなかったんだし、その気付きはその時点では必要なかったんだから。

大人の仮定

 今回の言の葉の庭で気づいたことのなかで最も大きなものは、今までこの二人の行動に大人としての行動を暗黙に仮定していたという見落としである。
 言い換えれば、ふたりともその当時の人間として理性的に、かつ合理的に物語を進めているのだろうと勝手に思っていた。そんなことは一切なく、タカオも、またユキノも一種の幼稚性を振りまきながら舞台を歩いている。そうでなければ行動原理に説明がつかないというほどに致命的な見落としであるが、いままで気づかなかったのだから仕方がない。

なぜ靴職人なのか

 タカオが靴職人を目指すという設定に根拠がない、という批評を見たことがある。確かにその原点となりそうなエピソードは「母親の誕生日に靴を贈った」というワンカットのみであり、いまいち動機に欠けると言ってもいい。

 しかしそうではない。逆だと推定を改めた。動機などなんでもいいのである。その世界から抜け出せるのなら本当に何でも良かったのではないか。パン屋でも、宇宙飛行士でも、本当になんでも。(ただ作品進行上の理由は十分にあり、これは舞台装置としてのタカオではなくタカオ本人の心情としての動機がピンぼけしているという限度で有効な指摘であることは理解している)

 私自身がなぜ10歳のときに気象予報士を志したのかその理由を何度も思い出そうとしたのだが、全く定かではない。実は理由などなく、本当に何でも良かったのではないか。この無理解と低俗な現世から解き放たれるのなら何でも良かった。ただその時自分は理系であることを確信しており、はるか先にあるはずの三角関数や微分方程式、そして物理学の本質的な性質のひとつである未来予知に憧憬を抱いたから。あとは何か難しい資格を一つ得ていれば職はあるだろうという10歳なりの安直な考えを付け足せば十分な理由になる。
 本当にそれだけなのだ。その時自分が文系であることを自認していれば間違いなく司法試験を受けただろう。そのほうが良かったかもしれないし、そして間違いなく弁護士にはなれなかっただろうし(気象予報士には三回落第している)、あとで理系に行きたかったとアマチュア数学研究者になっていたルート(フェルマーか?)とどっちがより不幸であったかはもはや不明である。
 実はわたしは気象学に惚れ込んでいたわけではないのだ、と明かされたのが博士課程前期に入ってからという悲劇も相俟って、もはや本当に動機などなんでもいい、ただの舞台装置としての「十代の頃の目標」(劇中、兄がそう呆れている)でしかなかったのだろう。

二人のアンチテーゼとしての劇中人物

 そう、この劇中の兄の一言が単なる冷やかしであると錯覚していた。ここで私が本作品をはじめ映画作品を読む上でおいている重要な仮定を説明するが、ワンカットたりとも意味のない描写はないはずであると思っている。少なくともこの作品において46分に収めきるには有り余る描写の少なさ(前述の靴職人の動機が代表的)を鑑みると、無駄なカットなど入れるはずもないのだ、と仮定した。とすると、意味のわからないカットがあるとすれば、読めていないか、または新海誠の美意識の投影と解釈するかの二択である。そして、兄の冷やかしは後者とは思えない。よって、このセリフは随分長い間読めていなかったワンカットであった。

 ここで最初の大人の仮定に戻る。タカオが一身独立した大人として振る舞っていると思っているうちは、たしかにこのセリフは冷やかしでしかないだろう。しかしタカオが子供だとしたら、これは対照的な子供時代への冷笑として映る。

 だとするとタカオの靴職人とは何か。これはもはや憧れ、または外の世界への道程というタカオ自身の舞台装置であって、実は靴職人になりたかったわけではなかったのではないか。とすると、ユキノに会うまで自分用の靴しか作ってこなかった理由や、ユキノに対する感情が憧れ一辺倒であることとも符合する。

性的感情の否定

 この考え方を少々敷衍する。劇中タカオがユキノをいじめた先輩たちに殴り込みに行き、普通に殴り返されるが立ち向かっておそらくこてんぱんにされるというシーンがある。この冒頭、女子生徒の「あいつ下手くそでさ」というセリフと、ユキノを指した「あの淫乱ババア」を拾いたい。これらはすべて彼ら彼女らの性的劣等感の投射であると推定することは容易い。悪口というのはたいてい自分に一番効く言葉を選ぶからである。とすると、その性的劣等感からくる彼女らの存在がタカオとユキノの二人の世界との逆世界であるならば、タカオはユキノに憧憬は抱いていたものの、恋愛感情はまったくなく何なら告白したシーンでも存在せず、振られてやっと自覚したくらいなのではないだろうか。(悪口は自分の一番効く言葉を選ぶから)

 これはかなり長い間不思議だった。というのも、土砂降りの雨に降られて濡れ鼠になった二人は繊細なピアノの旋律とともにいつの間にかユキノの部屋にワープしているからである。普通、「うち、くる?」などの誘いがあったはずであり、これはほぼ間違いなくユキノから発せられたであろうことは文脈上想像がつき、そしてそこに大人の階段を想起しない高校生ってなんなんだ? という疑問があったのである。(私がそうだからなおさら)

 ユキノがタカオに対して性的感情を抱いていないという仮定はとりあえず通す(これも根拠薄弱である)。しかしタカオは? とすると、「あの淫乱ババア」にビンタした身としてまさかそのまま押し倒そうなどとそもそも思うはずがないのだという筋を考えたほうが個人的には納得ができる。

 また、そのほうがラストシーンでユキノを罵るシーンで「俺が何に憧れてもそうなれないことを知っていた」旨主張することとも符合するのではないか。俺がお前のことを好きだったのを知っていた、のではないのだ。情愛ではなく、あくまでも憧憬である旨主張する点で一貫性を持つ。(対してユキノは「タカオに救われていた」と一方的な救済を享受していたズルい女であることが明確に描かれており、この点私がこっぴどく振られたときにはなんともスカッとした気分になったりもした)。

ユキノの二重性

 ここでユキノはなぜ振っておいて追いかけたのかという古典的な問に戻る。これはもう言の葉の庭のファンの間で一定の分析が通っているようで、要は個人的な感情と「先生と生徒」という大人の論理との板挟みにあって、そして見事正解したのだという解釈である。このとき大人の論理が表にでるのだが、これは当然裏筋と読むべきであった。すなわち、ユキノ自身が幼児性を有している存在であって、その幼児性故にタカオを矛と盾で振り回したのである。身勝手なやつ……。

 これをもとに作品をひっくり返してみると、ユキノはどこかちょっとおかしい大人でなく、幼児帰りしたおばさん(?)であると読んだほうが良いのかもしれない。その意味で二人は、お互いにお互いを幼児的な憧憬と救済として勝手に解釈して、そして最後に破綻するのであった。

 この点、私が過労の末休職する憂き目に合うまで理解できなかったことをただ心苦しく思う。実際、こうなると何もかも無理で、そりゃ新宿御苑でビール飲みたくなるし、かわいい男の子をからかって遊びたくもなるわ。幼児である。その一面を裏に隠しているのでなく、前面に出したものであると解釈することも十分に可能だろう。

 なおこれも一定の分析が通っているかと思うが、タカオの母親が一回り下の男と交際しているという兄の言明はそのままタカオとユキノの関係と重なる。これも単なる作劇上の符号かと思っていたが、実は幼稚性の投影だったのかもしれない。ある意味では、二人を一旦はひとつ抜けた存在として見なければ成立しない仕掛けである。但しこの分析だと抜けているのはひとつ下なのだが。

自己の幼稚性と革命軍としての人生

 この分析を通じて一番効いたのは大人の仮定である。これはまったく自分に仮定されていて、自分の行動は一貫して合理的で先を見据えたものであると信じていたのだ。ところが、中身を覗いてみれば自分の環境が気に入らないので外に出たい、誰にも頼りたくないから自力を蓄えると言って、実際の処親の掌の上で転がっていたに過ぎない。単なる幼稚性であった。これを認めることがおそらく今回の言の葉の庭のなかで最も重要な気付きであったのだろう。
 努力の抗弁であるとか、目標の尤もらしさであるとか、やけに堅実な人生進行であるとか、そういうのは全部幼稚性を大人っぽさで塗り固めた結果に過ぎず、化けの皮が剥がれれば10歳からなにも進歩していないのであった。
 確かに自分の環境は自分で勝ち取るというスローガンは二十年機能した。そしてそれが努力の根源となっていて、革命的行軍の旗印として機能していたのだ。しかしそれは一点反抗によってのみ成立する脆弱な論理で、もし現在に安住してしまうと革命の理由を失う。
 昨今の自分のありようがあまりにも反革命的()なので、まあ正確に言うとあんまり必死になって努力しようとしないのでおかしいなと思っていたところであった。気象予報士試験の受験時、大学受験時などほぼ青春を懸けて、まさに学校内で何が起きているか、交友関係など知ったこっちゃないといわんばかりに自己陶酔的に急進していった記憶があるのだ。最近そうでもない。ぶっちゃけ今の会社で一生食っていけと上位存在に言われたらはいわかりましたと本を投げて適当に暮らしたって別に死にはしないし好きな小説も書けるのだからまずまずの人生でありがたいことであるアーメンアーメン、などと言ってもいられる。わりと居心地がいい。だから据わりが悪い。
 革命を旗印に行進していった勢力がもはや安寧の地を得たら行軍の理由がなくなる。そこまでイデオロギーに染まった人間ではなかったようである。

 ではこれからどう努力していくのか。というより、どのような理由付けをすればSDGsを保ったまま継続的努力ができるのか。そういうことを考えなければならない時期に来たということである。
 それが弁護士かっこいいとか、今の生活よりもっと上を、ではもう通用しない。人を助けたいとか、役に立ちたいとかいうのはあまり理由にならなさそうだ。それは副次的効果として享受すべきものであって、本来的には自分がやりたいことをやる、気がついたら勝手に法学書を開いているという状態が望ましい。ただ、そうなっていない。動機を外的な要因に求めることはできなくなったわけだから、もっと内的な自己に努力する動機を求めるほかなくなった。

 もう何もしなくていいよ、とささやく声もする。いまの生活に満足すれば何もいらないよと。そもそも十分な餌と安全な寝床が用意された猫はよく眠るのである。

 それでもやはり、革命思想を捨てても何か根本的に何も上昇志向にないというのは気持ち悪いので、もっと気持ちの良い理由で法律の勉学や小説の執筆に望みたい処である。

 可能であれば、あまり自罰的でない結果を自分に望む。そういえばこの一点を以てここ二年の大きな変化と言っていいのかもしれない。

持続的開発可能な人生

 やはり時代はSDGsである。無理なく、楽しく、そして必死に生きよう。

 

 

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