生脚は悪くない、ジジイが悪い。

 友人が痴漢被害に遭った。その話をきいて憤りがわいたので少々文章にまとめてみたい。

 事案としてはこのようなものである。これは友人から聞いた話であり、多少の脚色がしてあるが本筋は捉えている。

パチンコ店ホール勤務の女子大学生。
制服はキュロットスカートで、足が見えている。はじめこそ似合っているのかわからなかったが、店内の鏡を見続けていると足が細くなっていることに気付き段々と自信がついてきた。
いつもはタイツを着用して勤務していたが、ある日生脚を出して出勤。その日に高齢男性に触られた。
高齢男性は出禁処分となった。

 この事案で女子大学生は、店員から君は隙があるからねと言われたらしい。さて、女子大学生は非難されるべきだろうか?

 個人の意見として、彼女はまったく非難される余地はないと考える。以下論じていきたい。

圧倒的にジジイが悪い

 これは当然のことだが、触ってきたジジイが悪いことに争いはないだろう。そしてこれは単なる確認ではない。この件はそれで終わりのはずである。生脚出して出勤したのが悪いとは到底思えない。次の架空事例を見てほしい。

パチンコ店ホール勤務の女子大学生。
制服はキュロットスカートで、足が見えている。はじめこそ似合っているのかわからなかったが、店内の鏡を見続けていると足が細くなっていることに気付き段々と自信がついてきた。
いつもはタイツを着用して勤務していたが、ある日生脚を出して出勤。その日に、いつもの交差点で右折するバスと衝突した。

 ここで生脚出してたのが悪いというのはおかしいだろう。同じ時刻、同じ交差点に到達する学生とバスがたまたま接触したとしたら、学生側からすれば単なる事故である。痴漢事例も同じで、いつも同じ席に座っている人が、いつも出勤している店員に対し、たまたま服装を変えて出勤したタイミングで触った。これ以上の因果関係は存在しない。痴漢に遭ったのは扇情的な服装だったから、とは因果関係の破綻そのものであると思わないだろうか。『毎日同じ通学路を歩いててたまたま今日だけ生足出したら、いつも通り7:50に交差点を横断中、いつもそこで右折するバスがスリップして衝突した』として、事故の原因を生足に求めるのと同じぐらい意味がわからない。

 なにより、煽情的な服装の女性が痴漢に遭いやすいとのエビデンスは存在しない。最近知られてきたように、痴漢が狙うのは抵抗しなさそうな女性であり、単に支配できそうな人間をターゲッティングしているだけである。あるいはボケているか。 いずれにせよ、服装と痴漢との間に因果関係も相関関係もない。あるのはただの時系列である。

痴漢の受忍義務などないし、配慮義務もない

 そもそも女性がどんな格好をするかは原則として自由であると考えている。どんな服装をしてもかまわないし、決定権は自分自身にある。これはフェミニズムの基本的な考え方であり、もはや浸透していて疑う余地はないものと思っている。一方で、その結果責任に関してどこまで受忍すべきかは争いがあるようだ。
 女性が可愛い服装をするのは、見られたいからではない。その服を着たら似合っていて可愛いからである。しかし服装を選択して街に出ている時点で、見られることまでは受忍しうるものと考えられる。写真を撮られるあたりからプライバシーの侵害になりうる(※1)として議論があってもいいだろう。
 触られることを受忍する義務など全くないし、触られることに配慮する義務もない。そして、何人も痴漢されないよう配慮させる権利も全く有していないと解すべきではないだろうか?
 

服装のせいにするのは被害者思考

 まあ私も外の人は男性であるし、短いスカートや胸元が露になった服などを見ると「えっちだな」と思うこと自体は白状しなければならない。正直なところチラッと見てしまったり、触りたいと思うこともある。ただ、許可なく触るようなことはしない。当たり前のことだ。
 この一線を超える、すなわち触ってはいけないと理解し、触らないという選択肢があり、触らないでおこうと決意することもできたはずなのに、敢えて許可なく他人の身体に触る行為に出るという、一線を超えた人格態度に対して、我々は道義的非難を加えているのである。(※2)
 この故意責任を負うのは加害者側であって、被害者がそれを誘発したかどうかは原則として問われない。しかしこのあたりが曖昧になった議論が横行している。例えば本節冒頭に書いた「えっちだな」という感想は私のものである。が、これを敢えて俺をエロい気分にさせたお前が悪いと主客を転換するのは、まさに被害者思考そのものであって、加害者が自分の責任を分散させるために取りがちなよくある思考回路である。
 モラハラ(あるいは精神的DV)もそうなのだが、加害者は自分のことを被害者だと主張し、モラハラ被害者は自分の加害意識にさいなまれているという事例が散見される。痴漢も同様であり、世間や周囲からの非難が被害者に向けられることで被害者の加害意識を増長させ、被害者の救済から遠のく結果を招いている。心配することは自由だ。被害者のことを思って言葉をかけた一面もあるだろう。それはそれとして、被害者に責任の一端を担わせるのは心配の域を超えているのではないだろうか。
 なにより、俺をエロい気分にさせたお前が悪いなどと、エロ漫画の中でしか聞かないようなセリフを内面化し、自制を保てない人に対する失望がある。服装が悪いと被害者に自衛を促すのは、もはや加害意識の植え付けと共に自制心のない潜在加害者の助長であり、望ましいものとは思えない。

ではどうアドバイスすべきか

 アドバイスするな。これに尽きる。
 何かあるといっちょかみしたがる昨今の風潮には辟易している。そういうのをやめるだけで一歩大人になれるとは思わないだろうか。何か一言いいたがるのは小学生と同じメンタルなのではないか?
 ただ話をきき、つらかった気持ちを共感的に理解し、悪いのは加害者で会って、服装は関係ない。事故に遭ったようなものだ。加害者は罰せられるだろう。あなたは悪くない、と、そう一言が言えないのであれば、何も言わず黙っていた方がよっぽど被害者を心配しているとは思わないだろうか。
 何かしなければならないと焦っているとき、何もしない積極的な選択肢を持ってほしい。そもそも性犯罪被害者に対してできることは限られている。カウンセラーでも一言で上手にケアできるわけではない。時間をかけてゆっくりと癒していくものだ。仮に一言で終わるのなら外科手術と同等の難しさがある。それを魔法の言葉で治してやろうなどと思わないほうがいい。
 ただ私はあなたの味方だと、そう伝えることはできないだろうか。

自信をもって自由な服装をしてほしい

 わたしが一番悲しいのは、これを機に彼女が自信をなくしてしまうことだ。せっかく自分のことが可愛いと思えるようになったのに、クソジジイのせいでその身体を消費される感覚に苛まれ、おびえて生活しなければならないなんてことは絶対に避けたい。
 どんな服装をしてもいい。これから肌を見せないようにジャージで生活したってかまわない。しかし自分に自信を持ってほしいし、持ち始めたところで出鼻をくじくようなことをされたのが至極悔しい。
 悪いのはクソジジイであって、あなたは悪くない。服装も悪くない。たまたま事故に遭っただけのことで、あなたは消費されてもいないし、消費しようとする人には天罰が下る。そういう社会になりつつあるいまこそ、自由な服装で自分に自信をもってほしい。そうして明るい笑顔をまた見せてくれたら、私はとても嬉しいと思う。
 そういえば、二年ほど顔を見ていない気がする。次に会うときはどんな服装だろうか。本当は可愛いのに、本人がそれに気づかないなんて寂しいことは終わらせよう。そろそろちゃんと気付いてもらいたい。

注釈
※1 憲法13条、最高裁昭和44年12月24日大法廷判決参照 憲法判例百選第7版16

そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もその承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。

※2 故意責任の本質は、規範に直面して反対動機を形成しえたにもかかわらず、あえて当該行為に出る反規範的人格態度に対する道義的非難である。

お気に召しましたらちゃりんとお願いします。メッセージ、感想等お待ちしております。