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色街写真家・紅子&カストリ書房・渡辺豪と一緒にめぐる!吉原の過去と現在ツアー


はじめに

4/28〜5/6まで、吉原弁財天前の遊廓専門書店カストリ書房で、色街写真家・紅子『現代を生きる吉原展』写真展が開催されましたが、会期中、Xにて【急告】紅子&カストリ書房コラボガイド開催決定!という告知を発見。5/3-5/6の4日間だけの限定ということで急ぎ申し込みツアーに参加してきました。
場所柄、どうしても早足になりがちなところを、カイド付きでゆっくり巡ることができるということで、少しウキウキ気分で集合場所へ向かいました。


ツアー概要

色街写真家・紅子さんが活写した現代吉原の撮影スポットを一緒に巡りながら、紅子さん本人の口から撮影秘話を大公開。
加えてカストリ書房店主・渡辺豪さんが吉原遊廓の歴史を紹介してくれるというもの。おおよそ1時間かけて吉原をゆっくり巡ります。

【予定ルート】
①吉原のメインストリート・仲之町通り
②かつての大見世跡・吉原公園と懐かしの電話BOX
③コンパニオン募集看板
④妓楼の名を継ぐ日本最大のソープランド本店
⑤わずかに残る赤線建築
⑥戦後の雰囲気を色濃く残す一杯飲み屋跡


ガイド紹介

色街写真家・紅子さん プロフィール

10代で風俗嬢となり関東各地の風俗街を13年以上転々とする。32歳で吉原を引退後はシングルマザーとなり、子育てとパート仕事の日々。2021年からカメラを始め、風俗街、赤線、遊廓跡地などを訪れ、日本各地に残る色街の風景を記録している。2023年12月写真集「紅子の色街探訪記」出版(紅子の色街探訪記 https://lit.link/benikoiromachi# より)

渡辺豪さん プロフィール

遊廓専門のカストリ出版、カストリ書房経営。京都芸術大学・非常勤講師。10年ほど全国各地の娼街を取材・撮影しています。(Xプロフィールより)


吉原遊廓について(概略)

1617年日本橋近くの日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画にできたが、あたりには葦が生い茂るようなところであり、そこから吉原の名がついたといわれる。
明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者は元吉原、後者は新吉原(以下、吉原遊廓)と呼ばれている。
吉原遊廓は260m×360mほどの広さで、ここに人口1万人、内、遊女が3000人程度いたという時期もあった。時代により前後するが、江戸時代初期から中期にかけては2000人程度、幕末には7000人程度遊女がいたといわれ、特に幕末は岡場所から吉原へ連れてこられたものも多数いたという。
明治以降は政財界の社交場が花街へと移っていき、次第に縮小、1957年(昭和32年)に売春防止法が施行されると吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部が特殊浴場に転身していった。


ツアー内容

集合はかつて吉原大門があった場所、今の吉原交番前が集合場所。ここからメインストリートの仲之町通りを中心にソープランド街が広がっています。
まずはお歯黒溝(おはぐろどぶ)跡を東へ。吉原遊廓は盛り土により造成されており周囲はお歯黒溝(おはぐろどぶ)に囲まれています。
下り坂や段差があるところは造成地であることの名残りです。遊廓の周囲には堀があるところが多い。これは遊女がここから逃げられないようにしたという話をよく聞くが、堀は排水施設の役割を担っていたという話はあまり知られていないようです。

<写真>下り坂はお歯黒溝(おはぐろどぶ)の名残り
<写真>お歯黒溝の石垣の擬定地(石垣跡)

お歯黒溝は 19 世紀初めには埋め立てられました。この溝に関する史跡はこの擬定地(石垣跡)以外ほとんど残っていません。


しばらく歩くと吉原公園に着きます。ここは、かつて吉原遊廓の三大妓楼と称され大文字楼の跡地。200坪ほどあったといわれています。

<写真>吉原公園(大文字楼跡地)
<写真>旧町名由来案内

ちなみに公園向いのあるソープランドには煙突がありました。ときおり煙が出ておりました。これは紅子さんに教えていただいたのですが、このような発見もツアーならではだと思います。


吉原公園を抜け西へ向かうとえんじ色の建物が見えてきます。「白菊」というカフェー建築の建物です。民家にカフェーっぽくタイルを貼っているのが特徴的です。

<写真>元 白菊①
<写真>元 白菊②
<写真>元 白菊③

タイルを貼ってカフェーっぽくしたのには、売春宿らしくないように見せるためとも言われています。ということは、裏では。。。ということになるのでしょうか。


続いて、角えび本店(元 徳兼)。角えびは明治創業で大衆店のはしりといわれています。コロナ禍で休業中とのこと。コンパニオン募集の立て看だけがやけに目立ちます。

<写真>コンパニオン募集立て看板

仲之町通りに出て北へ向かい旧伏見通りへ。ここはカフェー街跡地と呼ばれ、今でもカフェー建築の遺構がいくつか残っています。

<写真>旧伏見通り
<写真>元 プリンセス

元プリンセスは瓦屋根、中は和風の造りになっているようです。外観とのギャップが気になります。

<写真>マスヤ

マスヤでは、かつてこまどり姉妹が三味線を弾いていたとかいないとか。。。

<写真>旧カフェー街
<写真>謎の羽子板

再び、仲之町通りに戻り南へ歩を進める。しばらく進むと細い路地が見えてきます。ここを左折しまた進むと、再びカフェー建築の遺構が見えてきます。ここ太閤さんは元グループホームとして使われていたようですが、今は空き家となっています。集合住宅用に改築するのは難しいようで、あとは解体を待つのみかと。。。
タイルと円形の柱がカフェー建築の名残りのようです。

<写真>太閤

太閤の裏手にはゆうらくというカフェー建築の遺構もあります。遺構と言っても、現在も住宅として使わせております。壁のハートマークのような意匠が特徴的な建物です。

<写真>ゆうらく

最後に、南側のお歯黒溝(おはぐろどぶ)跡を進み仲之町通りに戻ります。ここで渡辺さんから貴重なお話が。南側のお歯黒溝(おはぐろどぶ)跡を境に吉原側の仲之町通り街路樹は柳、吉原の外側は柳以外という違いがあると。行政(台東区)が気を利かしているのではとのことだが、確かに内側外側で木が異なっていました。(写真撮り忘れた~)

またしばらく、仲之町通を南下、吉原神社前を抜け吉原弁財天でお参りをし、向かいのカストリ書房がゴール。

<写真>吉原弁財天前 カストリ書房

小一時間ほど、ゆっくり吉原に残る赤線遺稿(カフェー建築等)を堪能させていただきました。

ツアーを終えて

吉原というとソープランド街というイメージを持つ方が多いと思いますが、ゆっくり巡ってみると、一般の住宅やマンション、アパートもあり普通に生活をしている方々をたくさん見かけました。これが吉原の日常なんだということがわかります。逆に、ツアーで巡っている我々の存在のほうが違和感を覚える、よそ様の家に土足で上がっているような不思議な感覚に陥りました。

かつての遊廓が時を経て形を変えて残る吉原。紅子さんが撮影した吉原、今回一緒にめぐったことで、これは特別な景色ではなく、吉原の日常であり当たり前の景色なんだと言うことを改めて実感したツアーでした。

<写真>仲之町通り

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