人間社会と日本:経済-02

ー 人間社会と日本:経済-02

人間社会が「転換期」を迎えていることに言及してきた。日本は、大東亜戦争に敗北してそこから止む無く経済偏重で国家を運営してきた経緯ある。そこから75年程が経過し人間社会は大きな紆余曲折を熟してきた。現在は、歴史の変化の大局的なものに遭遇していると判断できるであろう。経済においても「適切な規律ある競争原理」による自由主義経済が著しく歪になる様相に変化してきている。その様相変化の推進者である支那(中共)と米国中心のグローバリスト達にとっても、これまで「好都合な環境(そうなるように仕向けられた)」であったものが、時間軸の経過で変化(推進者の制御を越えた人間社会の「系」としての動的変化が出現)が起きてきており、増大する一方の推進者側の要求(欲望)を満たすことが出来なくなりつつある事態を招いていると言える。換言すれば、推進者側の限りない欲望が生み出してきている「巨大な経済的不均衡」は、人間社会の持続性(動的平衡)を失わしめる危険性があり、人間社会の維持に必須の機能を軋ませ壊し始めているように見受ける。例えば、実体経済が円滑に回るためには信用価値(資金)の円滑な流通が必要であるが、浮利を素早く巨額で追求できる特定金融市場における金融資産取引に吸い寄せられ、実体経済の資金循環が「阻害」される傾向が強く成る事態を招いて実体経済の勢いを喪失させていると言える。

物事は単純に一方向へ進むというものではなく、状況に軋み悪化が生じてくればそれに対して反作用の動き(人間の行動としては異議申し立ての動き)が出てくる。支那(中共)等が推進する方向に対して反撃にでてきている代表的な存在が、奇しくもそれに連携している部分がある米国のDJT政権(2020年米大統領選挙の奇妙な内容と結果でDJT氏は退陣させられた)であった。DJT政権が布いた対中政策は強力であり、後継のJRB政権においても継続して推進されているようだ。JRB氏が親中派であることは既に明確になっていることであるが、強力なDJT政権の政策を引き継いでいる。それでも紆余曲折があり、ここにきて支那(中共)への協調勢力の動きもあり対支那(中共)で微妙な様相も出始めているように見受けられる。

一方で、中共ウイルスのパンデミックから2年程が経過し下火の傾向も出始めており、人間社会は「再始動」する動きを見せ始めている。当然だが、各国の回復状況はマチマチであり、その経済への影響がどれ程のものであったかは此れから明かになってくるであろう。今現在に経済的に共通して見られることは、インフレであり「物の動きが鈍い(サプライチェーンに軋みが生じている)」ことである。全般的に経済活動が止められたことより、必要と思われる資金(相当の規模)が各国政府から投入されたが、生産供給側や輸送サービス等において中共ウイルスの感染症禍により「簡単には元に戻れない障害」が随所に発生しているようである。「経済の動き」が「正常」に戻るには、時間が掛かることが予想される。否、従前には戻らない可能性もあり得る。新たな解決方向が模索され時間が掛かる事態の予兆も伺える。結果的に、其処彼処に生じている需給ギャップ等によるものと想定されるコストプッシュ型インフレが生じているようである。日本も例外ではなく、その様相が出始めている。また、権威的主義的勢力による温暖化対策の影響で化石資源への投資が手控えられ再生エネへの投資が拡大したが、自然環境の変化に再生エネは柔軟に対応出来ない事態を招いており、今後一層増大するエネルギー需要に対して「危機的不足状態」を齎す気配が濃厚になりつつある。推進者側である権威主義勢力側(EUや中共が主体)には予想外の事象であろうと推察する。支那(中共)で発生している停電の原因は複合的のようだが、広域で大規模な断続的な停電にまで発展しているようであり、生活基盤に経済活動に多大な影響が見込まれるであろう。

既に始まっているが、支那(中共)と人間社会のディカップリングに勢いが増す様相が色濃く成って来ている。支那(中共)では、情勢の変化(人間社会で政治経済文化的に忌避される)に内部での権力闘争の激化も加わり、習近平はその足場固めに先達の「毛沢東様式」を採用して、支那(中共)を新たな混乱と低迷に導いているようである。この様相に、外資は支那からの引き上げを促進しているようである。従来の「単純な在り様」の経済に従った動きでは対処出来ない事態の拡大が顕著に成ってきているようである。この動向は経済界単独の対処では解決出来ない様相のものであり、政治の意向が優先的に強く働く様相になりつつある。既に、民間段階で状況を的確に認識して動いているところもあるであろうが、今は国レベルでの錯誤を犯さないためにも支那(中共)そのものとそれが引き起こす変化の影響(内部と外部にどのような影響を与えるのか)を見極める(精査する)ことも必要な時期である。

支那(中共)とのディカップリングが確定しつつある今は、日本はそれを前提に動き出すこと(支那(中共)経済に依存しないことや中共の影響力を排除すること)を本格化させる時期にきている。日本は今は政権選択の総選挙の最中である。自民党の事由(総裁選)で先に誕生した岸田政権であるが、総選挙の結果を反映して変化があるかどうかも今後は注目されるであろう。また、変化の速度を増す様子が伺える支那(中共)の動きを「考慮して対応する」陣容を、次期岸田政権が整えるかどうかも注目にあたいするであろう。日本は、最早外部に依存した在り様では立ち行かなくなることを認識して、覚悟と自覚を持って独自性を示す動きへ舵を切る段階に来ている。何時までも自虐を持たされ外部勢力に忖度し利用されていてはいけないであろう。それでは、後代に適切な日本を引き継げないであろう。


再度、第二次世界大戦後の歴史認識と其処に繋がる「起点」の明確化と今もその流れが異様に変異して人間社会に跋扈していることを整理しておく。その上で、日本の経済について新たな展開を考察する。

支那(中共)には「百年計画」があること記述した。毛沢東の独裁でジリ貧に劣化した事態から、キッシンジャー・周恩来による策謀である程度の水準へ変異(百年計画の経済的下地を作る)した。中共はその後に人間社会が期待した民主化(近代化の実現)の期待を裏切り、鄧小平による「改革開放(狡猾な政策)」で「世界の工場(人間社会を支那(中共)に依存させる)」になるという建前で躍進する。更に江沢民以降はグローバリストと連携し、支那の規模を活かして資本の論理を悪用して人間社会に浸透してゆく。重要な知的財産をもつ企業の買収や先端技術窃取を行い、支那への進出を促し生産手段の支那側での確保を推進する等巧みに活動してゆく。歪に台頭した支那に習近平が登場してその状況を過信して増長してゆくことになる。人間社会もこの頃から、支那(中共)の本質に気付き始めて露骨な浸透を受けた豪が厳しい姿勢を支那(中共)にとるようになる。この動きに米国に誕生したDJT政権が続くことになる。中共ウイルスのパンデミックに対する中共の対応姿勢やその所業の公然化で人間社会から忌避される方向へ変化してゆく。

習近平の情勢錯誤もあろうが、本質的なことはソ連共産党の終焉(永続できない質のものには終わりが来る)と同型な「大きな循環」が、支那(中共)に訪れていると理解できる。戦争という手段で対抗勢力に滅ぼされるのではなく、その極点に達した後は「内蔵された要因」により反作用で「自滅」してゆく過程に突入してゆくというものである。真面な修正作用が生じてこないと崩壊してゆくことになるであろう。今回の支那(中共)はそのピークが過ぎて、自国の諸環境も更なる成長を支えることが出来ないものへ時間軸の推移と共に変化してきている。危機を迎えているにも拘らず、習近平は中共の百年計画に拘り尚且つ自身の保身(毛沢東に倣い終身の身分を獲得する)のために似て非なる毛沢東路線を採り始めてその強化を進めている。然るに、「極」からの変化として「中華式不動産投機(支那全土を所有する中共の富形成の本質部分である)」に終わりが訪れていること、錯誤した政策の合成で予期せぬエネルギー不足の発生していていること、定例化の様相を見せる「大規模洪水」による被害が他方面へ悪影響を波及させていること、中共ウィルスをゼロ・コロナ対策(権威主義的強権で人権無視で制圧する)という手法(感染症絶滅志向は最初から無理がある)で行ってきているが抑えきれていないことがある。習近平の強権的な施策とその施策が危機的な状況を助長する作用により、支那(中共)は政治経済文化において「厳しい劣化」の事態を迎えてゆくことになるであろう。共産党幹部から人民に至るまで、この事態に「耐えられるのか」ではないだろうか。兎にも角にも「隠蔽体質」で外向けに異様な情報戦や心理戦を仕掛ける現習近平指導部がこの先において生き残れるかどうかが注視されるであろう。

再認識として、人間社会は「支那(中共)」という前近代に止まる勢力が台頭する(許してきた)という歪な状況にあること、安全保障が第一義的な秩序維持の在り様に「戻って」しまったことを理解する必要がある。米ソ冷戦構造で自由主義側は米国の覇権状況(米国が秩序を維持する)が確立していてたが、対立相手のソ連が崩壊(自滅)して自由主義側のグローバリスト(特定資産家や国際金融資本等)が、支那(中共)側の同型の中共幹部宗族と連携し「跋扈」する環境が出現した。然るに、ここ30年間程の支那における人口動態や成長に伴う生産コストの上昇(成長による)や技術窃取の困難性(先端的な領域には制限が加わる)等の変化や支那(中共)以外の外部が支那(中共)の台頭による自らの不利益に覚醒してきたことで、ソ連崩壊後の人間社会を引導してきた勢力(主に中共である)に「翳り」が出て来たと言える。グローバリストも旗色は悪いと言える。

日本は、平成時期に人間社会に於ける日本の立ち位置と方向を確りと見定めずに、人間社会の流れに流されてきたと言える。換言すれば、支那(中共)とグローバリスト勢に翻弄(用日)されてきたということである。これまで記述してきているように、日本は日露戦争後から続いているように、人間社会に於ける自らの立ち位置を自らの歴史観と国家観に従い「決める」ということをしてこなかった。故に外部勢力に翻弄されることになり未曽有の悲劇を甘受し、尚且つ成長しようとすると制約を設けられ停滞せざるを得ない事態を招いている。ある意味で、平成は似て非なる大正であると言える。昭和の初期の「間違いを犯す轍(主たるものは選民志向の官僚達である)」を再度踏むことなく温存されてきた官僚機構の宿弊を取り除き、令和で日本と日本人は覚醒して人間社会で確固した立ち位置を確保してゆくことを目指すことである。その答えは「日本的なるもの(民の活力を生かす)」にあることは明かであろう。

経済の論考ではあるがやはりそれを規定してくるものへ言及せざるを得ないであろう。ここで更に再確認しておく。現在の人間社会の転機は、次のような認識の上で理解できるであろう。西欧近代科学技術文明に内在する「危機を齎す要因」の二大要素と其の後継である。一つは、資本の論理へ対抗する「共産党宣言(マルクス・エンゲルス)」に発すると思われる「共産主義運動」であろう。もう一つは、飽くなき資本の論理を追求する「暗黙の存在である特定財閥」による金融経済による実体経済の支配の確立であろう。前者はロシア革命に繋がりソ連の成立と崩壊というものを起こした。今は亡霊のような「権威主義勢力(ジェンダー理論や批判的人種差別理論等)」として変異して生き延び、その勢力の権威主義的な自己満足的な在り様で逆に人間社会を「破壊(絆を断ち個人をバラバラにする)」しようとしている。後者は、ソ連の崩壊後一極覇権の米国でグローバリストとして国際金融資本を巻き込み究極の自由主義を追求し、ある程度経済成長しこれからという支那(中共)の規模と内在する経済力とそれを強権的に差配できる中共幹部宗族と連携して「金融経済による実体経済の支配」を完成させるという動きをしてきた。結果は、人間社会に異様な不均衡を齎してきた。そして、前者と後者が相俟って「極」の域に達して中共ウイルスのパンデミックを境に人間社会がそれらの本質に覚醒を始めていると言える。

一方で、科学精神と科学及び技術は止まることなく発展を遂げてきており、人間社会の生活基盤は大きく変化して様相を変異させてきている。そうした人間社会の様相の変異を捉えて、諸国家は其々の出自と伝統を踏まえて「近代性」の再確認と水準の向上が必要な段階に来ていると言える。


先述の二つの認識を踏まえた上で、日本は此処からこれまで定まらなかった日本の在り様を、「日本的なるもの」を再考して目標を掲げて追求してゆくことである。その際に、これまで用日を行ってきた勢力の動向を的確に把握し、その影響力下にある国内勢力の着実な排除を同時並行的に推し進めることである。

ここからの日本経済への「処方箋」について考察を加えてゆく。現在は総選挙の最中で、経済の「成長と分配」という課題設定がなされている。この用語では、中々経済問題の本質を捉えられないのではないだろうか。経済の成長と言う用語を「質的向上」と「量的拡大」の二面性から捉えると理解しやすいであろう。戦後の高度成長は、この二つの要素が同時進行して、それに人口動態の推移もあり好循環の環境が実現し、更に国内で郵貯の財投資金への循環が非常に上手く回転して生じた事象と捉えることが出来る。此れを例題に考えれば、現在の日本の環境は好循環に繋げるものを見出すのが難しいと言わざるを得ない。勢い外国にその環境を求めることになり、メディアに煽られて「支那(中共)の幻想」に引き寄せられてきた日本(歴史観や国家観をもとに確かな日本を自覚しない)の現在があると言ことになる。

分配という用語であるが、これも経済的なニュアンス以外が多分に入り込む用語であり使い方としては好ましくない。「人が生み出すものへの対価」を如何に扱うかというであろう。人件費や労賃を上げることで可処分所得の割合を増やすことが重要である。人は働くこともするが消費もする存在である。消費が大きく成れば必然的に景気が良くなる。また可処分所得を増やすには公的負担(所得税・社会保険・固定資産税・物品税他)を適正な負担割合に下げることである。日本は現在この公的負担の比重がかなり大きく成ってきている。これは、官僚機構が縦割りであり、日本社会における個人に掛かる公的負担の総額についての理解が足りないことによるであろう。これの是正には、政治家を動かすことが必要であるがこの力が弱体化している。特に、若い世代の言挙げの力(政治力)が弱まっていることが懸念される。

国民は、政党を育てるという意識を持つことが近代国民国家においては必須である。政党に「差配」されるのは、共産主義等の全体主義国家にある意識である。ここが改まらないと「天皇と民」の国の日本は現在のような状況を招くことになる。「しらす」の在り様では、政体を担う者達の在り様において「日本的なるもの」により厳しい規律が内在されていた。そうしたものが確り内在出来ない、又は希薄な政体は長くは続かないのが日本の長い歴史が物語っているであろう。

こうした観点から日本の政治経済文化の在り様を考察してゆく。

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