人間社会と日本:転-04

ー 人間社会と日本:転-04

経済面:

支那(中共)の経済面における問題は、彼等には「適切な商道徳や規則のもとで市場原理による取引を行なう」という近代化された諸国及び諸国間で共有される在り様が欠如していることである。彼等は全ての面において「歴史的中華様式の行動(騙すことに衒いがなく騙される方が愚かである:異民族支配が長く支配被支配の関係で策には対抗策で応じるのが習い)」を採ることである。結果的に、ルール無視の自己都合の行動になるので、相手側は不利益を常に被ることになる。共存共栄は望むべくもないと言える。然るに、支那(中共)の行動様式が人間社会で「何故か許される」という状況が続いてきたのは、支那(中共)はその人口規模からして他国とは比較できないもので、発展途上国という「隠れ蓑(当初は事実であるが)」を利用して目的を遂げてゆく雰囲気を醸成してきたことによる。更に、意図的にも結果的にも「世界の工場(その真意は人間社会が支那(中共)に依存することになるという状況を実現させること)」になり、人間社会に貢献するという謳い文句にもなる。然るに実体は経済面から「華為秩序」を齎し政治面でもそれを背景に「影響力の行使」を行うというものである。つまり支那(中共)にとっては、政治と経済は一体のものであり「中華式支配原理(華為秩序)」で動かすものであるということである。そのことが今現在に於いて人間社会で公然化し理解が進んだと言える。

少し以前に「静かなる侵略」が話題になった。支那(中共)の豪への「浸透」を描いたものである。実際は、支那(中共)は豪に対するのと同様に人間社会全体に対しても「静かなる侵略」を行ってきているということである。米国におけるDJT政権誕生後の支那(中共)への対抗政策とその実施により支那(中共)の実体が公然化してきた。日本も例外ではなく、他の先進諸国よりも用日という要素もあり一層の浸透を受けており、漸く親中派が炙り出されてその影響力の行使の実態の一部が明かになりつつある。更に、日本国民も覚醒を始めており今回の自民党総裁選でも「幾つかの事実が公然化」した。日本は支那(中共)とかなり関係が深く、立ち位置を切り替えてゆくには時間が掛かる。安倍政権での支那(中共)へ進出した企業への「移転費用の負担政策」だけでは不十分であり、情弱な経済人の啓蒙を促すために「経済安全保障関連法」の整備の促進を行い、近代性の水準の高いルールのもとで競争原理による経済取引ができる「構図(経済ブロックレベル)」の構築を、価値観を同じくする諸国と推進することが必要である。具体的には、動き始めているCPTPPへの英国と台湾の加盟を促進し、中共の加盟申請に協力的な批准国や批准ができない国は情勢の推移で入れ替える等の方策を実施して、加盟国の共通経済基盤としてCPTPPの強化を推進することである。CPTPPという「橋頭堡」としての経済領域があることで、「全ての領域で政治的に振る舞う勢力(現在は主に巨大な支那(中共)である)との対峙が可能になる。更に、総合的な経済安全保障の枠組みとしても機能するであろう。特に、実利を追求する経済界には、具体的な動ける「経済環境」が必要であろう。つまり、対支那(中共)に対して毅然と対処できる具体的な「領域」を示し構築に向かうことが重要であろう。そして、その水準を上げて発展を可能にすることである。

環境問題に代表されるように「物事を権威主義的に扱う(属人的な特定勢力に有利な構図の構築)」動きが経済の面でも露骨になってきている。「近代化」というのは「属人的な在り様」に代替するものを、人間社会に作り上げてゆくものであると理解する。昨今は近代化が当り前になり大分に形骸化してしまった状況が現出してきており、初心に戻ることが必要であろう。例えば、環境問題ということであるならば、日本は公害問題を「政治的に解決」したのではなく、問題の本質を捉え排出基準の設定により、有害物質の除去の技術開発なり不可能な場合は代替技術の開発等と技術的な選択肢を増加させることで解決してきた。人間社会に「特定勢力に利する奇妙な枠組み」に嵌める権威主義的な現在の在り様で解決してきたわけではない。リベラル勢力(共産主義の生き残りを図る変異した勢力も含む)等の権威主義的な対処や、多様性を主張しながら「伝統と慣習」を壊し個人をバラバラにして抵抗力を弱め、主張の強い勢力に引き摺られる動向には要注意である。温暖化と関連付けられて脱炭素化が左傾化した国連主導で権威主義的な手法で推進されてきた。当の欧州(分けても独逸で推進されている柔軟性に欠ける再エネ重視の施策に時間軸の経過で環境変異もあり破綻の兆しがある)や、支那(中共)での推進状況において当初の想定とは異なる事象(環境変化による各種の政策ミスの合成によるエネルギー供給体制の劣化)が生じてきているようである。権威主義的な在り様は独善的に成り人間社会の動的変化に妙な歪を持ち込むことになり、人間社会に結果的に混乱と分断を持ち込むことになると言える。重要なことは、経済の世界にあっても、水準の高い「近代化(選択肢の許容と独善性の排除)」の追求をおこなうことである。技術的な課題は、技術革新で選択肢を増やすことで対処することであると経験的に言える。多変量の複合で起こる問題には、その要素を見極め要素毎の課題解決とその再統合で実現してゆくことが肝要である。権威主義的な枠組み設定で柔軟性に欠ける一方向への推進の手法は、人間は全てを知ることは出来ていないことより絶対的な正解を提示出来ないと認識して止めることである。現実を見ればやはり権威的な対処はリスクが大きいと時間軸の推移が示している。日本は、環境問題等へのこれまでの努力と実績に基づき人間社会に毅然と提案し妙な動きを牽制してゆくことである。結局、実現できているのは日本だけであることに自信を持ち、より国益重視の姿勢を打ち出すことである。

重要なものであるが解決が難しい問題として「金融経済の肥大化」がある。実体経済は、実体価値を生み出して信用価値や派生する付加価値(利益)を生み出すものである。然るに、経済の血流である金融経済が「手っ取り早い差異利益(然も巨額なもの)」を生み出す「金融投機場」に変質していることによる弊害が目立ち始めている。その背景には、グローバリスト(特定資産家や国際金融資本等)による情報化と知識化を利用した金融制度の自由化や金融商品の多様化があり、ある意味でそれらは強欲勢力に「悪用」されている傾向が色濃くなってきている。この在り様は経済的な巨大な不均衡を齎しており、人間社会が「機能(金融は経済の円滑な回転に資するもの)」しなくなる危険性(利益追求のみの資本の論理で実体経済に歪みを齎す)を孕んでいることを認識する必要がある。投資と投機は分けられないという現実がある。人間精神の内の「強欲」に起因しているものであり、金融制度に適切な規制を設ける方向が考えられるが、それでは抜け道が模索され「いたちごっこ」に終始する可能性が高いであろう。嘗ての日本では「浮利を追うことを戒める」や「社会に貢献しない資産家は尊敬されない」等の商道徳での対応があった。こうした社会からの牽制も必要であろう。日本は巨大な金融資産を生み出しているのであるから、金融経済の制度設計に「日本的なるもの」を発揮してより深く関与することである。何時までも脇役ではなく、日本の重要性を確り自覚して人間社会に確り提言して本来の人間社会の弥栄に貢献してゆくことである。


〇日本が対内で推進するもの

日本は、明治維新で「開国」し「人間社会(当時は西欧列強が帝国主義で席巻する弱肉強食の情勢にあった)」に参加した。明治政府の方針と団結した国民の努力で、西欧近代科学技術文明を受容し日本なりに昇華して「日本型近代国民国家」を築き上げてゆく。国家建設の過程で「国境確定作業」の経緯から、朝鮮を挟んで支那(清朝)と日清戦争になり勝利して台湾の割譲を受け近代化の歩みの拡大を行う。更に成長して日本は、対外拡張を行う露西亜と戦争し何とか「勝利」して日本国を人間社会に「認知」させるまでに至る。ここで一応の国家目標を達成するが、逆に大きな問題(朝鮮の併合)を抱え込み日本の「錯誤」が始まる。それまでは、西欧列強と対等になることを目標に国家建設を行ってきた。日露戦争で一応の目標を達成するが、適切な国家目標の見直しがなされず、新たな「明確な国家目標」も立てることが出来ずに、日本は錯誤を繰り返してゆくことになる。その結果が大東亜戦争(第二次世界大戦)に繋がり未曽有の悲劇と史上はじめての経験(外部勢力による占領)を甘受するに至る。

戦後は、空襲等による荒廃した国家と国土経済の再建と再興が先に立ち、国家目標を設定することが出来ずに其のままに来ている。「再建(占領の終了と国家主権の取り戻し)」が先に立ち、これは政府と国民の努力で短期間に達成する。サンフランシスコ講和条約において、「国家主権」を取り戻した。再興から高度成長へと続いたが、やはり「国家目標」が設定されずに「成り行き任せ」な状況になる。結局は確固としたものがないこともあり、外部勢力に翻弄される轍を繰り返すことになる。つまり、確かな歴史観や国家観のない政治家達の不作為と同じく戦前から温存された官僚機構に体現される事勿れが、その後に日本に多くの問題を招いてゆくことになる。

思うに、日本はその歴史をみれば殆どを「自立」して過ごして来たことより他国との関りが少ない。支那との関係が主体で、明治維新が本格的に人間社会に参加することになったと言える。故に、国際間においてどの様な国(人間社会における立ち位置)でありたいかという意識が日本人には希薄であり、冷徹な国際間で冷徹に対処する「作法」も中々身に着かないと言える。

現在の人間社会は、西欧近代科学技術文明に内在する「基本問題」に関わる事態が大きくなってきている。それとも関わる中共という「異質な国家目標(人間社会に華為秩序を布く)」を掲げその経済規模を利用して歪に台頭してきて、その露骨な様相が目立ち始めて人間社会が「拒否」の反応を示し始めている状況にある。各国では対中共で自国の在り様を再点検する動きが始まっている。日本も例外ではない。中共は隣国であり浅からぬ関係があり、中共の対日影響力の行使の動向が公然化され日本の在り様を再点検し「選択の時」を迎えている。その意味で国民が共有する国家目標(あるべき日本の在り様)が改めて収斂しつつあると言えるであろう。明治・大正・昭和・平成とこの間150年程の時間が経過して、日本と日本人は「良きにつけ悪しきにつけ望外の経験」を積んできて、やっと本来の日本(西欧近代科学技術文明に遭遇しそれを昇華して上位変異したあるべき日本)を選択し獲得できる時期に来ていると言える。その観点で、「覚悟と矜持を以って望む選択の時」であろうと理解する。今もこれからも日本の弱体化を望む勢力は人間社会に現れ続けるであろうが、そうしたことを確り認識し日本を導いてゆく政治家の責任と覚悟を問うことにもなっている。それは、明治維新以来の官僚機構にも言えることであろう。明治迄は武士の教育を受けた人物達がいたが、その後は選抜を重視した教育体系により「知的選民意識」に堕落し無責任な「事勿れ」に流れて多くの不作為に繋がってきている。「日本的なるもの」の本分に立ち返ることであろう。経済人についても言えることであるがグローバリスト(強欲勢力)に迎合しては日本は失われるであろう。「日本的なるもの」を以って経済の振興を測るのが本来の在り様であり日本の延いては人間社会の弥栄に繋がるのではないか。

隋唐の支那に対峙して「大化の改新」を遂行し一時期は成功するがその後に馴染まずに国が乱れてゆき、菅原道真の「遣唐使の廃止」を代表に国風化が新たに起こり武家政権という新たな政体の誕生に繋がることになる。西欧近代科学技術文明に対峙して「明治維新」を遂行して、日本型近代国民国家を構築することが出来て人間社会で一角の立ち位置を獲得できたが、日本国のあるべき方向性(国家目標)を常に掲げて立ち位置を点検して進むということをしてこなかったが故に、人間社会の主要勢力に翻弄されるという悪循環に埋没してきた。土台は出来ているので「新たな日本」へ進化する選択の時にきていると言える。選択の最たる機会である「総選挙」へ国民は確り自覚と現実認識を持って望むことであろう。

より具体的には、以下のカテゴリーに分けて考察する。考察論考は別稿にて。

・安全保障
・政治
・経済
・文化スポーツ

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