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足尾探索記 (香風音視点) 2

初めましての方 初めまして。
前回の記事を読んでくださった方 こんにちは。
香風音(かふぇいん)です。

先日、足尾エリアを探索してきましたのでその様子を紹介したいと思います。前回は間藤駅に着くまでをやったので今回はその続きです。

まずは間藤駅を出て廃校となった本山小学校へと向かう。
街はメインとなる道路を中心として派生していく構成だが基本的にメインの道を歩けば全貌は見えるといった印象。

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間藤駅を出ると第を略字にした趣のある看板の倉庫があった。

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そこの壁には視力検査…?何故トランプの柄が…?

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さて本山駅方面に歩いていくと、低い屋根を持つ家が出てくる。山を登る道路に面した住宅にありがちな構造。箱根にも似たような景色があったような。

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足尾線の踏切の警報機。列車の接近方向は示されたのだろうか。錆がいい味を出している。

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先人達のブログではこの踏切は駐車場となっており有刺鉄線も無かったはずだが…

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異様に低い橋がある。先人達曰く、足尾小学校に通う小学生の通学路となっていたと書いてあった。上の赤い橋脚は先ほど渡った足尾線だ。どうも線路を後に引いたのではないかということだ。

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案内棒?の横には寛永通宝の中でも足尾で鋳造された足尾銭を模したモニュメントがある。そこには水力発電所跡と書かれている。そう。ここは間藤水力発電所の跡地なのだ。

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間藤水力発電所の水圧鉄管。どうやら発電機の製造元はみんな大好きドイツのシーメンス製。京浜急行のドレミファインバーターの製造会社だ。

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紹介の看板。間藤水力発電所は関東最古残の水力発電所といわれている。

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嘗てはこんな感じだったようだ。

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この本山小学校が

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展望台からは…

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このように中途半端に見える。後で近くまで行く。

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これから歩く道。道幅も狭く車には注意せねばならない。

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嘗ての割烹旅館の跡地なのか。山奥に似つかわしくない団地のようなものがあるのもなかなか違和感だ。労働者の住まいだったのか?

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地盤が緩いのだろうか、建物が歪んでいる。

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割れてはいるがこの摺り硝子に昭和の香りを感じる。

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表通りに面したところに防火桶らしきものを発見。しばらく使われていないようだ。

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防火桶の奥はボロボロの建物。

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こんなに家があったのか…と感嘆。

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上間藤の集会所を発見した。人の気配はないが活用はされているようだ。

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一本、道を入ると家の跡地らしき敷地もちらほらある裏道に出た。嘗ては家々が犇めき合い人々の営みが盛んだったのだろうか。

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熊に遭遇したら嫌だなあと思いつつ

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橋を渡る。尚。筆者は高所恐怖症である。

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下流の方を眺める。

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橋を渡り切りさらに進むと堅牢な作りの橋らしきものが見えてきた。

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よく見ると厚さ1cmはあろうという鉄板を2枚ないし3枚程重ねてリベットで接合している。どうしてこんなものが…と思い下を見てみると…

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線路とトンネルが見えた。そう。先ほど踏切で越えた足尾線である。トンネルを抜けさらに進むと終点の足尾本山駅に到達するのだ。

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堅牢な跨線橋を越えさらに歩くと、歩いて来た方向とは逆の写真だがこの様な真新しい柵が立った道が現れる。この道路の下には水路が流れている。そのためこの道は橋となっている。

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學校橋と名付けられている。この先に本山小学校があるためだ。

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學校橋の下はこのようになっている。来訪時には水が流れていなかったようだが確かに水路がそこにある。この水路は下の渡良瀬川に流れんでいる。

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どうやら危険らしい。大雨の時は来訪を控えたほうがよさそうだ。

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手前に見えるのは恐らく本山小学校の取水設備ないしは水力発電設備であろうか。奥に見える線路は先ほど交差した足尾線だ。

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學校橋を渡ると本山小学校が見えてきた。

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校庭、校舎内への侵入を禁じる看板が置かれている。嘗て訪れた先人達のブログでは校庭内の写真もあったのだが何かあると面倒。この先には登録有形文化財に指定されているものがあるらしいが侵入はやめていこう。(というより日光市のホームページ曰く非公開らしい)

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嘗て本山小学校長であった者を称える看板が並んでいた。

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鉄筋コンクリート造りの無骨な校舎。如何にも学校という雰囲気が漂う。

さてここらで本山小学校の歴史を紹介する。

明治25年(1892年)、足尾銅山の発展によって坑夫たちを中心とする銅山関係者の子供などが急速に増加したことを受けて私立古河足尾銅山尋常高等小学校が創立された。

尋常高等小学校とは 尋常小学校と高等小学校の課程を一つの学校に併設した学校のことだ。

尋常小学校とは明治維新から大東亜戦争直前まで使用されていた教育施設で現在でいう小学1年生から4年生までが尋常小学校の児童ということになる。高等小学校も明治維新から大東亜戦争直前まで使用されていた教育施設で現在でいう小学5年生から中学2年生までが高等小学校の児童・生徒ということになる。ただし、明治33年に第三次小学校令が公布され高等小学校が2年又は4年となった。この後に大体の高等小学校は二年制に変わってゆく。

尋常小学校も高等小学校も昭和16年3月1日勅令148号国民学校令によって国民学校初等科国民学校高等科に組織変更されることになる。尋常小学校は四年制から国民学校初等科の六年制に変わり高等小学校は二年制ないし四年制から国民学校高等科の二年制という風に変更された。(果たして卒業できた者はいたのだろうか…)また国民学校は義務教育とされこの期間の児童を労働に利用する場合は児童の就学を妨げられてはならないと国民学校令12条に明記されている。

畢竟するに、尋常高等小学校とは現在における小学1年生から中学2年生までを一校で教育するための学校であるということだ。

この尋常高等小学校が作られる経緯に当時(明治40年以前)は尋常小学校の四年だけが義務教育であり、将来的に義務教育を六年にしたいという考えがあったからだ。さらに前述したとおり第三次小学校令の公布以降、二年制を採用する高等小学校が増えた。明治40年の小学校法の一部改正により義務教育を六年とし、四年制の尋常小学校と二年制の高等小学校を合併し、尋常高等小学校が設立した。

さて私立古河足尾銅山尋常高等小学校は昭和21年から始まったGHQによる学制改革の新学制の施行に伴って公立に移管され足尾町立本山小学校として生まれ変わった。平成4年には創立百周年を迎えた。平成17年4月に生徒数の減少に伴って足尾小学校に統合され、実に113年の歴史に幕を閉じた。

尚、新学制で誕生した足尾町立本山小学校内には新学制施行に伴って昭和22年から昭和28年までの間、足尾第二中学校が併設されていたとされており、昭和28年に足尾小学校に併設されていた足尾第一中学校と小滝小学校に併設されていた足尾第三中学校とともに統合され足尾中学校が設立された…とされている。

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石畳が敷かれた道をあがると創立百周年を記念して建てられた石碑がある。(撮影者が反射していたため一部加工済み)

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さらに奥には本山小学校の沿革が書かれた石碑が置かれている。

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観音開きの石碑には本山小学校の閉校記念碑と旧校歌と新校歌が書かれている。

本山小学校 旧校歌

自然の秘めし銅の
山の恵みに幸うけて
永久に栄ゆる学舎の
歴史は長き本山校

厳寒酷暑ものかはと
心身共に練り鍛へ
学びの道にいそしみて
磨くや玉の真心を

教育の勅語畏みて
質実剛健華美を去り
務め励みて諸共に
御国の錦織り成さむ
本山小学校新校歌

渡良瀬川の上流に
そそぐみどりよ吹く風よ
ぼくもわたしも光の子
希望に燃えてはばたくぞ
たのしい本山小学校

運鈍根の信条が
いまも生きてる学び舎に
ぼくもわたしも元気な子
心をみがき身をきたえ
伸びゆく本山小学校

足尾の里に育まれ
ひとりひとりが手をつなぐ
ぼくもわたしも平和の子
足音高くすこやかに
その名も本山小学校

ええと…書き出してみて初めて気づいたのは随分と内容が変わったんだなということ。旧校歌は推測ではあるが創立から新学制が施行されるまでのものだったのではないかということだ。なにより教育の勅語というフレーズは明らかに明治政府が制定した教育勅語のことを指しているだろう。特に3番が時代背景を反映しているような気がするのだ…それに比べ、新校歌は随分と小学校の校歌として柔らかい印象を受ける。

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石碑があるあたりからさっき映したところを撮るとこんな感じ。

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石碑のあるところから奥に行くとなにやらシャッターと一段上がったところがある。おそらくは給食車を着け給食を運び込んだりしていたのだろう。

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その証拠に給食車が来る時間に駐車する際は注意するように呼び掛ける旨の看板が立てかけられていた。

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どうやらここは職員用玄関のようだ。

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玄関の横には灯油の保管所もあった。厳しい冬を乗り越えるために灯油を運びストーブに給油する…そんな風景が目に浮かぶ。

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玄関の扉を覗くとどうやらすぐに事務室があるようだ。児童が忘れ物をしたとき保護者が焦って忘れ物を持って事務室で手続き…そんな風景が嘗てはあったのだろうか。旧本山小学校校舎出入簿とかかれたファイルが目立ったところに立てかけてある。どうやら関係者が立ち入って相応に管理はされているようだ。横のガムテープもその証拠か。

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教室が見える方の窓を覗くと倉庫と化した教室が見える。最初は体育倉庫だと勘違いした。

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そんな教室の引き戸には足尾銅山生活協同組合三養会というテプラがある。提供元なのだろうか。地域に根付いていた小学校だったことが伺える。

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校舎裏に繋がる道には車轍が残りよく車が通ることがわかる。土留には苔が生し、草が茂りなんだか幻想的だ。ヒーリング効果を感じる。

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少し戻ると、すこし見づらいが昇降口らしき入り口を発見した。児童たちはあそこから登下校していたのだろうか。

さて、本校は一部が国の登録有形文化財に指定されている。指定されているのは昭和15年に建設された講堂だけだ。切妻造平屋建の講堂で、校庭側の西を正面とする。正側面には縦長の窓を並べ、その間には木製バットレスを付す。妻壁は木骨を意匠的に配したハーフティンバー風の造りとしている。と文化庁の紹介文にある。前述した通りこれは非公開の為、諦めて戻ろう。

想像以上に長くなったので今回はここまで。

次回は足尾本山駅へ向かう。

間藤水力発電所についてはこちら
http://www.suiryoku.com/gallery/tochigi/matou/matou.html
本山小学校の講堂についてはこちら
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00011265

前回の記事はこちら



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