つらつらと思うことを書いていくととりとめもなさすぎて何が言いたいか分からなくなるなどする。もともと言いたいことがない可能性は否めない。(裏ヤ)


4月も終わりですね

 早いもので、この日記にお誘いいただいてから1か月が過ぎようとしています。他の方の日記を拝読したり、すだちさんの総括で振り返りをしたりと、大変楽しく過ごしています(自分で文章を書くのも楽しんでいます)。 また、文章を読むのには時間がかかり体力も使うので、読んでいただけた気配を察したり感想などいただけたりする僥倖に、絵をお褒めいただいた時(とても嬉しい)とはまた違った嬉しさを感じます。
 一方で自分は感想を書くことが少なく、どこか申し訳なさを感じることもあります。(誰もそんなの気にしない気もしています。)面白いなと感じることや興味深いなと思うことはあるのですが、アウトプットがどへたくそすぎて書けないのです。悲しみ。(別にインプットが得意なわけではないので、普通に誤読してることも多々あります。インプットがまともにできなきゃそりゃアウトプットも歪むわな、という納得がありますね。)

語彙力とかほしい

 アウトプットというか、自分の思っていることを表現することは難しいなぁと思います。単純な語彙力の不足もありますが、自分が考えたことを表現する(この日記の場合はタイピングする)までの間で、何を考えていたのかが空中分解してぐちゃぐちゃになり、本来伝えたかったものと別の文章が組み上がるとかよくあります。そして出来上がったものの前で只管首を捻っています。どうしてこうなった。因みに今もそうなっています。救いようがない。
 以前長い文章を書こうとしたときなどは話がどこかに飛ばないようにとプロットを立てようと試みましたが、概ねプロットを立てた段階で満足し、永遠に完成しないという最悪の結果に終わります。お絵描きもラフで満足しがち。はい。
 ついでに、好きなものを表現するのが自覚的に苦手で、他人様に好きなものをお勧めするのはコミュニケーションの余地が入るので更に苦手です。
 お勧めが苦手なの、「好きなものを勧めたい相手」は自分にとって好ましい人であることが多いと思いますが、そうなるとそれを受け入れられなかった時のことを考えがちだからかと思います。ものが「合う」「合わない」はあって当然なのですが、好きな人に好きなものを拒否された(という語弊がある変換をした)記憶が残り、最終的にいらんことしたなって頭を抱えて落ち込んだり奇声を上げて暴れまわったりします。(実家で奇声を上げると、いぬが反応してくれて嬉しい感じになれます。)(でも親からは訝しまれます。)  
 私が積極的におすすめしてた場合はなけなしの勇気振り絞ったんだなって温かい目で見てください。(この間Twitterであの人とかあの人に別作品勧めてたのも、結構自分の中では頑張った出来事だったのです。)あとは嫌いな人に勧められたものってマイナスの印象から入る気がするので「私が」プレゼンをした結果元作品に悪影響与えたらどうしようとか考えたりもします。(基本私が嵌るような作品は既にメジャーで力を持っているのでそこまで考えなくてもいいのでは?)(多分そう)

とりあえずコミュ障

 苦手なこと繋がりで行くとコミュニケーションが必要なことは概ね全部苦手です。ずっとそのことしか言ってないな。スーパーで「袋いりますか」に答えるのがギリギリで生きてる人間なので、病院に行って病状を説明するのも美容院に行って希望を伝えるのも形容しがたい謎の呻き声とともに吐き出されがちです。そしてギリギリまで行きたくないので状況悪化させがちです。髪はぼさぼさだし健康診断は要検査でもスルーです。いい加減にしろ。 
 予約を取るために電話が必要とかになってしまうと電話を掛ける覚悟を決めるのに1時間ぐらいかかります。「電話」で「予約」、ただでさえ電話を掛けるの嫌いなのに、自分の記憶力が微塵も信用ならないので、予約内容が本当に間違っていないか当日までめちゃめちゃ緊張します。受付で訝しまれたら泣くしかない。
 ウェブで申し込めてメールで確定の連絡とか来ると割と安心できます。でも当日受付の人相手にコミュ障発揮するのは変わりません。画面を見せれば会話が短くなると信ずるのみです。結局受付で色々と聞かれてしまい、うまく話せないときなどやっぱり泣きたくなります。ぴえん。

気分転換に全然違う話とかします

 泣きたくないのでこの間の遅刻した話(4/14の日記です)についてもうちょっと別の面から書いていきます。読み返すの面倒だしせめてリンクを貼る努力位しろよとお𠮟りがありそうな気がしてきました。(でも貼らないあたり、反省する気がないことが分かりますね。)ざっくり要約すると「通勤途中で老人の道案内をした結果遅刻した話」になるかと思います。
 この話は一応実体験をもとに書かせていただきましたが(何せ日記なもので)、実際にこの出来事があったのは3月も終わろうかと言った時期だったかと思います。当時私は有給休暇を若干余らせていました。そして、私の勤める職場は、職員が当日になって「今日遅れます。後で有給申請します。」をやる程度には遅刻に対して寛容な環境です。上司もたまにLINEで「今日電車に乗り遅れたからちょっと遅れます。」とか飛ばしてきます。お茶目ですね。そして、その日の私は時間的にはギリギリ間に合うかな、くらいで、なんなら信号の機嫌によっては普通に遅刻する感じでした。
 以上の状況でご老人が助けを求めているのに遭遇したので、「普通に遅刻するより『老人を助けていて遅れました』の方がネタになるのでは?」みたいな考えは割とありました。声に気付いてスピード落とした段階で「もう遅刻かな」と思ってたところだったので、内容が道案内という「明らかに時間オーバーするし(自身の能力的に。ご老人には申し訳ないことですが)人命に関係なさそうなトラブル」で良かったな……的な思いとかも若干ありました。
 走り去ってから若しかして一緒に歩いて案内すればよかったのでは?とも思いましたが、ご老人のペースに合わせてゆっくり歩きながらコミュニケーションをとる自分はまるで想像できないので仕方ないことと思います。やはりコミュ障の自分からは逃れられぬのです。悲しみ。
 因みに出勤後は同僚からも上司からもちゃんと笑って貰えたので満足です。みんな優しいね。急いでいるときに誰かを援ける優しさ(仮)は周囲の環境と自身の余裕によってつくられるのを感じたとある春の日でした。

楽な生き方がしたいものです 

 あの話は、結局道に迷って座り込んでいたご老人が目的の病院に辿り着けたか否か不明なこともあり、「良いことをした話」というよりも「私の自己満足話」なのですが、自分で失敗(今回の話で言えばご老人が辿り着けていないという現実。実際はどうか知らない。)を認識するまでは「良いことをした自分」であり続けられるので、今後も認識する機会がないといいなと思います。シュレディンガーの道案内。都合の良い方でとっておけば精神衛生上安定していいですよね。都合の悪い部分や嫌なことからは極力目を逸らしながら生きていく所存です。
 今日も帰宅してから「あ、あの案件の引継ぎできてないのでは?」とか思っていたり、なんなら「何か引き継がないといけなかった気がするけど何も覚えてないな。」などと考えたりしていますが、私が抱えてるその案件が燃えなければ大丈夫だろうという甘い目算で生きています。同僚も上司も優しいのでそんな感じで生きていけてます。環境に感謝。

いぬかわいい



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